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自己紹介

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自己紹介

初めまして。
河野裕輔(かわのゆうすけ)と申します。

1985年生まれ。
愛知県岡崎市出身です。

宜しくお願い致します。


料理人になろうと思った理由

私の両親は、愛知県岡崎市で「ボストニアン」という喫茶店を営んでいました。

ボストニアン

子供の頃、その喫茶店の厨房を覗いて、両親が料理を作っている所を見ているのが好きでした。
時には両親の横で、ハンバーグを捏ねるのを手伝ったり、プリンアラモードの盛り付けを手伝ったりさせてもらっていたのを覚えています。

このように、料理というものが身近にある環境で、自然と物心付いた頃には料理人になりたいという夢を抱いていました。
料理に興味を持ち、料理に関する本や料理に関するテレビは好んで見ていました。
特に好きだったのは、漫画「味いちもんめ」です。
この漫画の影響で日本料理に興味を持ち始めたように思います。

この両親が営んでいた喫茶店は、私が高校生の頃、やもなく閉店する事になります。


料理人としての成り立ち

高校を卒業後、調理師の専門学校に入学しようと思うのですが、お金がなかったので、1年間工場で働き、お金を貯め、大阪府の「辻調理師専門学校」へ進学しました。
この専門学校には、「アルバイト進学」なる制度があり、学校がリストアップした飲食店が用意した寮に、住み込みで働きながら進学できるという、なるべくお金がかからない進学方法がありましたので、この制度を活用して進学させて頂きました。

この専門学校がリストアップした飲食店のうちの割烹料理店を私は選びました。
この店で住み込みしながら働き、学校に通い、
そして、専門学校を卒業後、この割烹料理店に就職しました。
ただ、この割烹料理店で住み込みしながら働いていく中で、この日本料理界というものに少し疑問を抱いてしまいました。
この独特な人間関係、理不尽な人間関係というものに、なかなか馴染む事ができませんでした。
私という人間は、内気な性格で、上下関係というものがとても苦手です。
働いていく中で、この世界観に真っ向から付いていく気力は、段々と薄れていきました。
数年働いた後、店を辞め、地元に帰る事にしました。

地元に帰った後、料理人としての気力は失いつつありましたが、両親が和食店を雇われで新しく立ち上げるという話が持ち上がりました。
そのお店が開店するまで、地元で居酒屋や焼鳥屋で働きながら準備し、その後、両親と共に和食店で働きました。

またその後、その和食店から両親と私は独立するという話が持ち上がりましたので、私が事業主となり、愛知県安城市で和食店「えびごころ」を開店しました。

その和食店では、お陰様で私は、お客様はもちろんの事、仕入れ業者さん、飲食店同業者さん等々、色んな方に育てて頂きました。
しかし、正直順風満帆という状況ではなく、やっと食べていけるという状況でした。
毎日、料理の事、経営の事、そして自分の将来の事を考えながら、営業を続ける日々を送っていました。

その和食店では、主に定食を提供していましたが、中には「あなたの料理が食べたい」と申して下さるお客様がいらっしゃいました。
ですので、そのお客様には、自分の料理の技術や知識が披露しやすい、お任せのコース料理を提供しました。
そのお客様は定期的に訪れてくれて、季節に合わせた料理を提供する機会を与えて下さいました。
そのお客様は毎回「美味しかったよ」と仰って下さり、決してだめだしはしませんでした。
ですが、やはり前回と同じ料理では、その「美味しかったよ」のテンションが前回と変わらない、むしろ低いという事に気付きました。
ですので、新しい料理の知識を独学で学び、その得た知識を試してはの繰り返しで、そのお客様に料理を提供していました。
自分の中でそのお客様に成長を見て頂きたいという想いがあり、毎回毎回、料理に対して挑戦させて頂きました。
そして徐々にそのお任せのコース料理は、他のお客様にも提供するようになり、そんな料理を作る機会が増えていきました。


料理人として高みを目指した理由

そんな中、30歳を過ぎた頃、「このままでいいのだろうか」という想いに駆られるようになりました。
その頃、日本でミシュランガイドが発刊されるようになります。
やはり、ミシュランで星を取るような料理人は、素晴らしいお店で修行を積んだという経歴をお持ちの方ばかりです。
その時、そういう経歴に目がいってしまう自分に気付きました。
やはり自分の中で、ちゃんとしたお店で修行を積んでいないという事が、大きなコンプレックスになっていました。

ただ、中には独学で料理を学んで、ミシュランの星を獲得している料理人もいました。

さらには、料理の雑誌やテレビで取り上げられる料理人が、自分と歳がそんなに変わらないような人が出てき始めていました。
この事に焦りという感情が芽生えました。
加えて、世間から評価される料理人は、料理に対して一生を捧げるような、命を捧げるような、全身全霊を捧げるような情熱を持っていました。
さらに焦りという感情に駆られました。
今迄は、そのような料理人の方達は、手の届かない存在、住む世界が違う存在として捉えていたのが、
実際に、そのような料理人の方達の料理を参考にし、自分の料理に落とし込む事で、実態が捉えられるようになるにつれ、自分もそんな料理人になりたいと思うようになり、自分と比べるようになり、自分の至らなさを実感するようになりました。

ただ、そんな焦りに駆られ、至らなさを実感し、憔悴していくと同時に、何か込み上げてくるものがありました。
30歳を過ぎて、人生の折り返し地点が見えた頃、「人生を後悔したくない」という想いが沸き上がってきました。
何もかも捨て去って、投げ捨ててでも、一度、料理に対して一生を捧げるような、命を捧げるような、全身全霊を捧げるような情熱を持って、料理に懸けてみようと思いはじめました。

修行経歴というコンプレックスはあるものの、それは抜きにしてでも、さらに独学で料理を学び、料理に対して命を捧げ、ミシュランの星を取れるような料理人に自分がなろうと思えてきました。

そうした想いが高ぶり行動する事になります。
30歳を過ぎて、料理人としてもっと高みを目指そうと一念発起し、店を辞め、1から料理修行をし直す決意をし、営んでいた和食店を両親に預けました。


料理人としてブログを書き始めた理由

しかし、開業資金で借り入れた借金返済が残っていたので、その借金の返済資金を賄うべく、自動車部品工場の期間工へと応募しました。
最初は初めての事ばかりで、慣れない仕事で大変でしたが、職場の方達の雰囲気も良く、徐々に慣れていきました。
休みも決まってあり、余裕もできて、時間もありましたので、その時間を使って料理を今までよりも深く勉強しようと思いました。
その時、ただ勉強するだけでは頭に入らないので、アウトプットする機会を設ける意味でブログを書いてみようと思いました。
さらに、ブログを見てもらう為にSNSも始めました。
ブログやSNSを始めているうちに、これは自分の事をもっと宣伝して、新しくお店を開いた時には、お客様がここから繋がればいいんじゃないかと思うようになり、自分自身の事もさらけ出すようになりました。
こうしてこのブログを書き始めました。

期間工は3年間という期間でしたが、それで何とか借金が返せる目処が立ちました。


料理人としての現在

そして、料理屋を開きました。
「料理屋 河野裕輔/Ryoriya Kawano Yusuke」です。

このお店で、真摯に料理と向き合い、
自分が納得いくまでとことん突き詰めた料理、
自分という人物を目一杯に表現した料理、
沢山の人に響かなくてもいい、批判されてもいい、
けれど、誰か一人には飛び切りの感動を与えられる料理、
そんな料理を提供するお店にしたいと思っています。

「定食屋 えびごころ」として、大衆的な食文化を提供する傍ら、
「料理屋 河野裕輔」として、伝統的な日本の食文化を伝える。
そんな、「食」に対して幅広い活動ができたらと考えています。


料理人としての未来

「定食屋 えびごころ」として、大衆的な食文化を提供する傍ら、
「料理屋 河野裕輔」として、伝統的な日本の食文化を伝える、
こうした、「食」に対して幅広く、活動としても幅広くしていると、
やはりたくさんの幅広い人に巡り合う事ができます。

料理人、調理師、栄養士さんから、
食材、器、道具等の生産者さん、
また、食に関する様々な方々、
皆様、素敵な方ばかりです。

その何が素敵だなと感じるのか?
そんな事を考えると、ひとつの共通点が浮かび上がりました。

それは、食というツールを使って、社会貢献をしているという事でした。

食に関する社会課題を、食というツールを使って解決している。
そんな姿が素敵だなと思いました。

自分自身、40歳を迎えて、社会への恩返しというものを意識し始め、
次世代に向けて自分ができる事を考えなければと、考えさせられました。

自分ができる食に関する社会貢献とは?
次の「想い」にまとめていますのでご覧下さいませ。


両親のお店|定食屋「えびごころ」

私の両親は、愛知県安城市で定食屋「えびごころ」を営んでおります。
よろしければご覧下さいませ。

妹夫婦のお店|おむすび屋「◯△▢(まるさんかくしかく)」

私の妹は、美容師をしております。

その妹夫婦で、おむすび屋「◯△▢(まるさんかくしかく)」を営んでおります。
よろしければご覧下さいませ。



皆様のご愛顧の程よろしくお願い致します。
ご意見やご感想等ございましたらお気軽にコメントして下さいませ。

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