私は、只今、料理人として、自分のお店を開くべく、日々勉強しております。
その中でも、日本料理・和食を基本として学んでおります。
そんな時、そもそも根本的な事を知らないという事に気づきました。
そもそも、日本料理・和食とは何なのでしょうか。
日本料理・和食の起源とはどういうものなのでしょうか。
という事で、第1回は、旧石器時代から古墳時代までの先史時代の日本料理・和食の歴史を学びました。
第2回は、飛鳥時代から平安時代までの古代、鎌倉時代から室町時代までの中世の日本料理・和食の歴史を学びました。
第3回は、鎌倉時代から室町時代までの中世、安土桃山時代から江戸時代の近世の日本料理・和食の歴史を学びました。
今回も、前回までに続き、日本料理・和食の歴史を学んでいきます。
Wikipediと、
熊倉功夫さん著書「日本料理の歴史」、
石毛直道さん著書「日本の食文化史」、
これらを参考にさせて頂き学んでいきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本料理
懐石を解析しますっ!
中世から近世の料理
中世:鎌倉時代~室町時代
近世:安土桃山時代~江戸時代
室町時代:1336年~1573年
安土桃山時代:1573年~1603年
江戸時代:1603年~1868年
今回は、懐石料理を重点において学んでいきます。
茶の湯の食事、懐石料理
懐石という言葉
懐石の登場は、石毛直道さん著書「日本の食文化史」では、日本料理の世界を形作る一つの柱が成立したという点で大きな事件であると言っています。
「かいせき」という言葉は、現代の世間で使われている様子を見ると、「懐石」といい、「懐石料理」といい、あるいは「茶懐石」ともいい、文字を変えて「会席」「会席料理」ともいいます。
しかしこれにはそれぞれ別の意味があります。
「懐石」とは、茶の湯料理の事で、厳密には茶の湯の世界では懐石とのみ言って懐石料理とは言いません。
では「懐石料理」とはというと、茶の湯を離れて料理だけが出される料理屋の料理となった時、懐石風という意味で懐石料理の言葉が使われました。
「茶懐石」という言葉は、本来、茶と懐石が同義反復で意味をなしません。
現代の懐石料理は宴会料理となり、飯と汁は料理の最後に出ますが、本来の茶の湯の懐石では飯と汁を最初に出します。
そのような現状から、茶会でなく料理をもてなすだけにしても、茶会風に飯と汁を先に出す場合、「茶懐石」という言葉が使われます。
「会席」「会席料理」は、茶の湯とは関係なく料理屋が出す料理の事とされています。
現代での「かいせき」という言葉は、それぞれこのように解釈されています。
しかし、歴史的には「会席」の文字の方が古くから使われており、「懐石」はその宛て字でした。
「懐石」という言葉が最初に史料に登場するのは、千利休の秘伝書として伝わっている古伝書「南方録」です。
しかし、「南方録」は後世の編纂物ですので、千利休が生きた時代である16世紀後期に懐石という文字が存在した事にはならず、「南方録」が編纂された1690年まで懐石の文字が登場する時代は下り、実際に16世紀後期の信用できる史料には懐石という文字は現れません。
1803年に書かれた、茶道の流派の一つ薮内流の中興の祖と呼ばれる薮内竹心の著書「茶話真向翁」では、
「茶湯の献立を懐石と書くが、その意味を理解しないで会席と書くことがある。それもおかしいと、会膳献立料理などと書く人もいる。やはり懐石と書くべきであろう。この字はもと禅語だときいている」(現代語訳)
と記されています。
懐石の文字が正しいと主張し、それが禅語からきている事、また「茶湯の献立」という呼び方があった事が分かります。
しかし、禅語に懐石という文字はなく、一般にいわれている事は、禅寺で修行僧が空腹や寒さをしのぐ為に温めた石を懐中に入れた事から、一時の空腹しのぎ程度の軽い料理という意味で懐石という字が作られたといわれています。
1708年に編纂された「南方続録」では、懐石という造語の意味を、
「懐石ハ、禅林ニテ薬石ト云二同ジ、温石ヲ懐二シテ、腹ヲアタタムルマデノ事也、禅林ノ小食夜食ナド薬石トモ、点心トモ云同意也、草庵相応ノ名也、ワビテ一段面白キ文字也」
と記しており、腹を温めるという事は、少しの食事をする事と同じ意味だとしております。
しかし、「南方録」も「茶話真向翁」も江戸時代にさして流布した本ではなかったので、懐石という言葉が江戸時代に用いられたという事ではなく、やはり、一般的に用いられたのは明治時代に入ってからで、一部では明治時代にできた言葉ともいわれていました。
では、懐石の文字がなかった時代、千利休によって茶の湯が大成された16世紀後期、茶の湯の料理は何と呼ばれていたのかというと、「山上宗二記」では「会席」、「宗湛日記」では「献立」、「天王寺屋会記」では「仕立て」「振舞」等の文字が使用されていますが、これらは、茶の湯の料理を特定する用語ではなく、いわば集会とか、食事の献立といったの意味でした。
それは、この頃の茶会では、茶の湯の料理としての独自の形式ができておらず、一般の宴会料理と実態において差がなかったので、言葉として別の意味を示す用語の必要がなかった事によるものと考えられます。
次に懐石の内容に入る前に、懐石の前提となる茶の湯について学んでいきます。
茶の湯の成り立ち
古代の喫茶
日本における最古の喫茶の記録は、815年、嵯峨天皇が中国に留学経験を持つ僧侶、永忠の寺院で茶を飲んだ事です。
永忠は、中国から帰国する際に茶の種を持ち帰って、自分の寺に茶園を作ったと考えられていて、嵯峨天皇は宮廷がある京都に近い国々で茶樹を植え、茶を毎年献上する事を命令し、さらに京都にも茶園を作りました。
9世紀の貴族や僧侶の社交場では茶を飲む事が行われました。
喫茶は中国文明に憧れを抱いた貴族や僧侶等、限られた階級の風習であったと考えられ、遣唐使の廃止後、茶に関する記録が少なくなり、寺院の特別な儀式の際に飲んだり、貴族が薬として茶を飲む例が知られる程度で、普段の飲料としては使用されなくなりました。
当時の茶は発酵を伴う製法が用いられ、茶葉を煉瓦状に圧縮した「磚茶」であり、独特の香りを持っており、その匂いが日本人の嗜好に合わなかった為、喫茶の風習が定着しなかったという説もあります。
抹茶の導入
日本における臨済宗の開祖で、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を開山した禅僧、栄西は、二度目の中国留学の際、茶の種あるいは苗木を持ち帰り、日本で栽培した事で約300年の中断の後再び茶が登場する事になります。
1214年、栄西は将軍実朝の加持祈禱に呼ばれました。
前日の宴会で将軍は飲み過ぎて二日酔いの状態にあり、当時の治療と言えば高僧による加持祈禱が何よりも効果があると信じられていましたが、栄西は加持祈禱する代わりに、茶を良薬として飲ませたところ、カフェインの効果は絶大で将軍はすぐに回復し、そして栄西は「喫茶養生記」という書物を著して将軍に献上しました。
栄西がもたらしたのは、中国の宋代の喫茶法で、茶の芽を摘み取った後、直ちに蒸して、乾燥させた茶の葉を小型の回転式の石臼で粉末にした抹茶で、これを大ぶりの茶碗に入れ、湯を注いで撹拌して飲む、現在の茶の湯と同様であり、その香りも日本人の嗜好に合うもので、抹茶を飲む習慣は寺院と上級武士の社会から浸透し始め、13世紀末には民衆の間にまで広がり、薬用効果を求めるものから、嗜好品としての飲み物に性格を変えていきました。
闘茶
14世紀から15世紀には、上流階級に「闘茶」という、何種類もの産地の異なる茶を飲み比べて産地を当て、得点に応じて懸賞が配られるという遊戯化した茶会が流行しました。
14世紀末期の闘茶の形式について「喫茶往来」に記録があり、これによれば、まず酒を三献飲み、素麺を食べながら茶を一服、山海の珍味で食事をし、菓子を食べてから、庭でしばらく休息を取り、ついで茶を飲む為の部屋に席を変え、茶菓子と共に産地の異なる4種類の茶を10回飲んで、産地を当てます。
闘茶が終わった後は、茶道具を片付けて、歌や音楽や舞を鑑賞しながら酒を飲む宴会に移行します。
こうしてみると、平安時代の貴族の宴会である「大饗」の形式の中に、中心的行事として茶を飲む事を付け加えたのが、闘茶の形式であるという事が分かります。
新興の大名達は闘茶を愛好し、その会場には中国から輸入した豪華な美術品を多数飾り、競い合い、まさに美術館の中で宴会を開くようなものでした。
侘び茶の世界
15世紀後期から、絢爛豪華さを誇る闘茶に対して、より内面的、精神的な美学を喫茶の場に持ち込もうとする動きが始まり、16世紀になると、当時の貿易港であった堺の裕福な市民の支持を得て、そのような茶の飲み方が「侘び茶」と称される事になります。
侘びとは、世俗的な世界から隠退し、簡素な生活の中で味わう、落ち着いた心境の事で、華美なもの、騒々しさ、人を驚かすような奇抜な表現を排除し、無駄なものを削り取った後に残る、簡素で洗練された美を追求するのが侘びです。
それは、禅宗の追求する精神的境地に共通するので、侘び茶を支える観念には禅の影響が認められるし、詫び茶の茶室には禅僧の書が好んで飾られました。
侘び茶を完成させ、現在も続いている茶道の諸流派の創始者となったのが千利休です。
茶の湯の影響
利休が作り上げた新しい形式の茶会は、それまでの古典的日本文化を統合し、新たな展開をもたらす契機となる性質を備えていました。
茶室の建設は、数寄屋造りという新しい建築様式を生み出しました。
数寄屋とは、小規模 (多くは四畳半以下) な茶座敷の事を言い、「数寄」とは本来「好き」の意味で、特殊な当て字として流布し、専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様を、特に「すき」と称しており、現代の俗語としては「あんたもすきね」「ものずき」等に通じます。
茶室の庭は、現在の日本庭園の様式に大きな影響を与え、茶室に掲げられる書画は美術の様式に大きな影響を与え、茶室に飾る花の生け方は生け花の新たな様式を生み、茶を点てる道具や茶碗は、金工、漆芸、陶芸の発達を促進しました。
同じように、食事に関する文化にも大きな影響を与え、現在の日本料理にも見られる、季節を象徴する料理や、季節感の演出といった事は、茶の湯の影響と言えます。
茶会では、その茶会の行われる季節に合った茶室の設えをし、茶を点てる道具、茶碗、食器もその季節に合った組み合わせで、茶会の全てにおいてその季節の微妙な変化を象徴的に反映させ、茶に伴う料理においても同じ事が要求されたからです。
禅や茶の湯の哲学では、あまりにも人工的なもの、完全なものは否定され、自然には存在しないシンメトリーな構図は採用せず、不完全なもの、アンバランスなものに美を見出そうとします。
西欧の絵画のように全て塗尽くすのではなく、余白を残し、描かれない部分に余白の美を眺めるのが禅の書画の一面とも言えます。
中世においての宴席の食事は、食卓一面を食べ物が覆い、うず高くシンメトリーに盛り付けられていましたが、懐石料理では、シンメトリーな盛り付けはせず、余白の美を意識し、これは現在の日本料理の盛り付けの美学の基本となりました。
懐石の特徴
安土桃山時代末期に日本に来たポルトガルの通辞であるジョアン・ロドリゲス著書「日本教会史」では、安土桃山時代の宴会料理には4種類あるとしています。
第一に、各人に三つの食台(三の膳)が供される宴会。
第二に、五つの食台(五の膳)の宴会。
第三に、高貴な人々をもてなす、最も荘重で、厳粛な七つに食台(七の膳)の宴会。
第四に、厳粛に茶を飲む事を人に勧める為に、特殊な方法と礼法をもって招待し、極めて高価な器物を使用して茶室で行う会。
これは、第一から第三は本膳料理で、第四が茶の湯のようです。
ロドリゲスによると、本膳料理は、
「趣向を凝らして調理された料理を客人に食べてもらう為というよりも、客人の身分に対して尊敬と厚意を示す儀礼として行われていた。その事からして、これらの宴会には、大きな慰安があり、酒を飲むにあたって多くの礼法があって、飲酒をそそるような色々の美味しそうな肴が出され、その上さらに楽器を使って音楽や演劇を行う娯楽があり、その他にも、そこに織り込まれているもの(余興)もあった。料理は一口分くらいの切片に刻んで食台に載せて出されるので、冷たくてまずく、それらの中では汁、すなわち汁物だけが暖めて出され、人々の好みに投じ得るものであった。」
と述べています。
この形骸化した本膳料理に対して、新しい宴席料理の台頭について、ロドリゲスは、
「信長や太閤の時代から行われ始めて、現在王国全土に広まっている当世風の宴会である。というのは、その時代以降多くの事を改め、余分なもの、煩わしいものを棄て去って、その古い習慣を変えると共に、宴会に関しても、さらに平常の食事に至るまで、大いに改善した。(中略)料理についていえば、ただ装飾用で見る為だけに出されたものと、冷たいものを棄て去って、その代わりに暖かくて十分に調理された料理が適当な時に食台に出され、彼らの茶の湯のように、質の上で内容を持ったものとなった。その点は茶の湯に学ぶ点が多いのである。」
と述べています。
千利休の懐石
形骸化した本膳料理に対して、余分なもの、煩わしいものを棄て去って、その古い習慣を変えるほどの、茶の湯や懐石の特徴であるいわゆる侘び茶と呼ばれる様式は、最初から持ち備えていたわけでなく、千利休により徐々に形成されていきました。
茶の湯の懐石が本膳料理の要素を払拭していく過程は、色々な史料が語っています。
千利休の高弟である山上宗二が1588年に記した茶道具の秘伝書「山上宗二記」に、
「紹鷗時ヨリ此十年先迄ハ、金銀ヲチリバメ、二ノゼンノ膳マデアリ」
と記しています。
武野紹鷗は、千利休の師で、その紹鷗が亡くなりさらに此十年先迄という事は、1578年頃まで、つまり織田信長の最盛期の頃までは、まだ金銀の箔や金泥をもって食器を飾り立てた料理が二の膳、三の膳付きで供されていた事が分かります。
千利休の曾孫、江岑宗左は、父の千宗旦からの伝聞として千利休の逸話を「江岑宗左茶書」に残しています。
「一、千与四郎、紹鷗呼、くしがき金ニだみて出し被申候、鴎感被申候」
千与四郎は千利休の幼名。
青年の与四郎が、師の武野紹鷗を茶に招いて菓子を出した時の事、「だみて」というのは「濃みて」という事で、金でべったり彩色した串柿を出したところ、紹鷗が感心したというのです。
しかし、後に千利休はこうした金銀チリバメというような観念を捨てていきます。
「一、易、茶湯に宗くわノ若キ時呼申候、堺ノ歴之弐参人相伴ニ呼申候、前之日礼ニ何も同道ニ而被参候、鶴の汁、金銀ノ振舞之用意ニ御座候ヲ、礼ニ被参候衆、小座敷へよび入、右之明日之料理出シ申候、膳之人数よりハ多ク出しカケ申候、扨当日ハな(菜)汁いたし被申候」
易は千利休の法名の宗易。
宗くわは武野紹鷗の嫡子の武野宗瓦。
時は紹鷗が亡くなって十数年後の事、利休は本膳に金銀で飾り立てた器を、しかも最高の贅沢である鶴の汁をもって用意しましたが、前礼として茶会の前日に挨拶に来た一同に、茶会でもないのにそれを全部と、さらに人数より多い数の膳も振舞ってしまい、当日の茶会は最も粗末な野菜の汁だけですませたというのです。
偶然の成り行きでこのような事態になってしまったという事でなく、利休は明らかに若い茶人達への教えとして鶴の汁、金銀ノ振舞を否定し、本番の茶会のでは野菜の汁だけを出し、いわゆる侘び茶と呼ばれる観念を示したと考えられます。
実際の利休の茶会の献立を見てみます。
1544年2月27日の利休の茶会の献立が「松屋会記」に残っています。
フ
汁 タウフ ツクシ
引物 クラケ
ウト
飯
菓子 カヤ クリ クモタコ 三種
一人用の膳には、向こう側に麩の煮物、独活の和え物2種の菜が置かれ、手前には飯と豆腐に土筆を入れた汁が並べて置かれ、後から、取り回しの酢の物とみられるくらげが供され、一汁三菜の献立となっており、菓子は煮しめのくも蛸と栗、榧の実の3種です。
この頃利休はわずか23歳ですが、すでに侘び茶の観念が伺える懐石を供しています。
それから15年後、1559年の頃ではまだ茶の湯の世界でもニ汁五菜ほどの本膳料理が主流とされていましたが、4月23日の利休の茶会の献立を見てみます。
カツヲ少マセテ
ナ汁
タイ 大皿 テシホ 飯
アヘマセ
引テ、カサウ、エヰ、ハヰ
引物 生白鳥 竹子入
クワシ 三種
鰹と鯛は和え混ぜとあるので、2種の魚の和え物として大皿に盛って調味料の手塩が添えてあります。
引菜というものが2種出ており、一つは和雑鱠という種々の鮮魚の切り身を混ぜて、蓼酢や塩で味を付けたもの、もう一つは、当時、鶴に次ぐ上等な鳥である白鳥と竹の子ですが、これの料理方法は分かりません。
鰹と鯛の和え混ぜ、和雑鱠、白鳥と竹の子を煮物と見立てると、これに飯と野菜の汁で一汁三菜となります。
これは一つの解釈ですが、この頃すでに千利休は、当時の一般的な本膳料理とは一線を画し、飯と汁の他に、向付、煮物、焼物という後の時代の懐石の献立形式に近いものを供していた事が分かります。
引菜というものが出ており、引菜とは客自らが給仕する形で器ごと客から客へ手渡しする「引く」料理で、給仕を用いない事を通して、茶室の中の客の平等を示しました。
料理に託されたメッセージ
千利休の秘伝書として伝わっている古伝書「南方録」では、懐石について、
「小座敷ノ料理ハ、汁一ツ、サイ二カ、三ツカ、酒モカロクスベシ、ワビ座敷ノ料理ダテ不相応ナリ、勿論取合ノコク、ウスキコトハ茶湯同前ノ心得也」
と述べ、一汁二菜、三菜にすべしとしています。
また、
「わびの茶の湯、大てい初終の仕廻二時に過べからず、二時を過れば、朝会ハ昼の刻にさハり、昼会ハ夜会にさハる也、其上、此わび小座敷に、平ぶるまひ、遊興のもてなしのやうに便々と居る作法にてなし」
と述べています。
茶会が「二時(刻)」4時間を過ぎるなと述べ、「平ぶるまひ」や「遊興のもてなし」とは本膳料理風の宴会の事と考えられ、それらのように長々と居る事を否定しています。
他にも、1701年に出版された逸話集「茶話指月集」に、千利休がある侘び茶人を訪ねた話が載せられています。
突然の利休の来訪に、侘び茶人は喜びます。
その住居はすこぶる侘びており、利休の心にかなうものでした。
利休が窓の外に人の音がするので見てみると、亭主が柚子の木から柚子を二つばかり取って、これで一つ料理するよと、柚子味噌をしたため出したので、利休はこの詫びのもてなしも一際良く思いました。
酒一献が進んだ後に、大阪から取り寄せましたと、立派な蒲鉾が出てきました。
これに利休は、「さては、よべよりしらするものありて、肴もととのえ待るにこそ。始め、わざとならぬ躰にみせつるは、作り物よ」と興ざめてしまいました。
利休は酒もまだ途中なのに、京に用事があるので失礼すると、亭主がいくら引き留めても聞き入れず、京へ帰ってしまいました。
侘びにおいては、有り合わせのもので良く、似つかわしくないものは出さぬ方が良いとこの話を締めています。
当時、蒲鉾は贅沢な食材で、誰かが利休の到来を知らせてあらかじめ用意していた事と、到来を知っていたのに知らなかった様子で、庭になっている柚子を即興で柚子味噌をしたためた事という侘びとはいえない事に利休は興ざめてしまったのです。
茶の湯の料理の要素としては、料理の味や形ばかりでなく、大切なのは侘びというメッセージ性という事を、この逸話は示しています。
懐石が日本料理史の中で画期的な位置を占めている要因は、メッセージ性あるいは趣向という点を料理に加えた事であったと考えられます。
それは季節感であったり祝いの心であったりし、季節感を象徴する食材が用いられたり、器の文様に季節感のあるものを用いたり、季節を膳の中に招き入れる、このような懐石の特徴を、趣向の面白さという点で引き継いでいったのが日本の料理文化であるといえます。
まとめ
今回も、そもそも、日本料理・和食とは何なのか、日本料理・和食の起源とはどういうものなのかという疑問のもとから、日本料理・和食の歴史を学んでみようという想いに至り、この記事を書き始めました。
現在の日本料理店の料理の基本形式でもある会席料理の成り立ちについて学ぶ事ができました。
茶の湯や懐石の台頭は、それまでの形骸化されつつあった本膳料理の余分なもの、煩わしいものを棄て去って、その古い習慣を変え、料理についていえば、ただ装飾用で見る為だけに出されたものと、冷たいものを棄て去って、その代わりに暖かくて十分に調理された料理が出され、質の上で内容を持ったものになりました。
さらに、侘びという、華美なもの、騒々しさ、人を驚かすような奇抜な表現を排除し、無駄なものを削り取った後に残る、簡素で洗練された美を追求する観念が芽生えました。
これらは、日本料理史において、日本料理の世界を形作る一つの柱が成立したという点で大きな事件であり、現在においてもそれは変わらず受け継がれています。
この日本料理の観念や世界感といったものが、今後、未来永劫、基本的には変わる事はないように思います。
それほどまでに、この時代で、それまでの時代の、絢爛豪華さ、華美なもの、騒々しさ、人を驚かすような奇抜な表現というものが良しとされてきた観念や世界感を変えたという事は、本当に大きな事件だという事が思い知らされます。
ただこうも考えられ、日本人にとって、絢爛豪華さ、華美なもの、騒々しさ、人を驚かすような奇抜な表現というものは、無理をして受け入れられ良しとされていた世界観で、実際には、日本人にとって本当に美しいと思うものが侘びで、それがただ千利休によって表に出され披露された事によって、眠っていた日本人の美の感性が刺激され、受け入れられたという筋書きとも考えられます。
この侘びという観念を、今後日本人はどのように育て、現在にまで伝えていくのでしょうか。
次の記事では、江戸時代の日本料理の歴史を中心に学んでいきます。
先はまだまだまだ長いっ!
第37回 かわののブログ
コメントはこちらからどうぞ