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【日本料理の研究③】本膳料理とは?日本料理の歴史を学びます!(鎌倉時代~江戸時代編)

室町時代-料理文化の研究


私は、只今、料理人として、自分のお店を開くべく、日々勉強しております。
その中でも、日本料理・和食を基本として学んでおります。

そんな時、そもそも根本的な事を知らないという事に気づきました。

そもそも、日本料理・和食とは何なのでしょうか。
日本料理・和食の起源とはどういうものなのでしょうか。

という事で、前々回は、旧石器時代から古墳時代までの先史時代の日本料理・和食の歴史を学びました。
前回は、飛鳥時代から平安時代までの古代、鎌倉時代から室町時代までの中世の日本料理・和食の歴史を学びました。

今回も、前々回、前回に続き、日本料理・和食の歴史を学んでいきます。
Wikipediと、
熊倉功夫さん著書「日本料理の歴史」、
石毛直道さん著書「日本の食文化史」、
これらを参考にさせて頂き学んでいきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本料理

河野裕輔
河野裕輔

日本人はっ♪胃腸が弱いっ♪


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中世から近世の日本料理の歴史

中世:鎌倉時代~室町時代
近世:安土桃山時代~江戸時代

室町時代:1336年~1573年
安土桃山時代:1573年~1603年
江戸時代:1603年~1868年

変動の時代

室町時代の後期から江戸時代の初期に掛けての時代、1500年から1641年を、石毛直道さん著書「日本の食文化史」では「変動の時代」としております。

1336年に成立した武士の政権である室町時代の将軍達は、地方統治の為に有力な武士を領主として任命しましたが、これらの領主が領地に対する支配権を次第に強め、将軍の統制に服さないようになり、独立政権化した領主、大名が現れました。
15世紀中期になると、室町将軍の統治権は名目的なものになり、1467年には有力な大名が二派に別れ応仁の乱が起こり、それ以降内戦の時代になり、日本を統一する政権の樹立を巡り、大名達による軍事的競争が始まりました。

ヨーロッパ人の渡来

1543年、種子島に一艘の中国の船が漂着し、この島の領主は、その船に同乗していたポルトガル人から鉄砲を2丁入手しましたが、これが日本への最初のヨーロッパ人の渡来になります。
1549年、聖フランシスコ・ザビエルが日本で最初にキリスト教の伝道を始めてから、イエズス会の宣教師達が来日して布教活動に従事するようになり、1582年には15万人の信徒を獲得したと記録されており、西日本の大名の中にはキリスト教に改宗する者もいましたが、純粋な宗教上に動機だけでなく、ヨーロッパ人宣教師と親密になる事で、貿易による利益が自分の領土にもたらされるという利点で改宗する者もおり、ポルトガルの船は、当時の東アジアの船よりも大量の輸送力を持っていたので、それまでの室町将軍が公式に行っていた中国貿易に取って代わるようになりました。
ポルトガル船は、鉄砲、火薬、熱帯アジア産の香辛料や薬品、中国からの生糸や絹織物を日本に運び、日本からは鉱山の開発によって大量に産出された銀を中国へと運び、中国では商品を仕入れ、これをインドのゴアに運ぶという中継貿易に従事していました。
このような活動に刺激された西日本の大名や裕福な商人は、船を仕立てて中国や東南アジアとの交易に乗り出し、東南アジア各地に日本人町を建設しました。
徳川幕府の鎖国政策が徹底するまでの17世紀始めの30年間に出国した日本人の延べ人数は10万人以上に上るとされ、この頃は、それまでの日本の歴史の中で、日本人が最も海外に進出した時代でした。

外来の食文化

この時代、海外との交流によって、カボチャ、サツマイモ、トウガラシ、タバコ等の新大陸原産の作物が日本に伝来し栽培されるようになりました。
昔から砂糖は中国から輸入されていましたが、貴重品であり、調味料としてよりも薬品として用いられ、東南アジアとの交易が盛んになると大量に砂糖が輸入され、甘い菓子類が作られるようになり、これにより日本の伝統的な菓子が形成されたばかりでなく、ヨーロッパの甘いケーキやキャンディの製法が伝わり、日本風に変形して現在まで残っています。
蒸留技術がタイから沖縄に導入され、蒸留酒の泡盛が作られるようになり、日本本土にも伝えられて焼酎になり、さらに、ヨーロッパ人が持ってきたワインも知られるようになりました。
キリスト教に改宗した人々は牛肉を食べ、ヨーロッパの料理法も伝えられましたが、後にキリスト教が弾圧されると、肉を主材料とする料理は作られなくなり、肉を豆腐等の材料に置き換えて日本風に大きく改変し、ヨーロッパの料理方法は南蛮料理として現在にまで伝わっています。
豊臣秀吉は朝鮮半島への出兵の際に、同地の手工業の技術者を日本に強制的に連れてきて、この人々が各地に陶業の窯を築き、先進的な技術による陶磁器の生産に従事するようになり、こうして、現在の日本の陶磁器製の食器生産の基礎が作られました。

伝統の創造

戦乱が続いても文化的に不毛という訳ではなく、戦国時代は日本の文化史において重要な位置を占める時期でもあり、古い秩序が崩壊し、新しい事柄が誕生するダイナミックな創造の時代でもありました。
能、狂言、生け花、歌舞伎等、現在に伝わる代表的な日本の芸能が生まれ、絵画史、建築史においても、最も創造的な時代と言われ、侘びという日本独自の美意識が形成されたのもこの時期でした。
このような文化的創造の中で、食文化に関して重要なのは、茶の湯が確立した事で、この茶の湯に伴う食事において、献立、提供の順序、盛り付け、食器の美学、食事作法等の形式が出来上がり、現在にまで受け継がれています。
近代以前の日本史において最も活力のあったこの時代は、徳川将軍が鎖国を宣言する事によって終わりを告げます。
鎖国によって海外からの影響が遮断され、他の文化と同様、食べ物の文化も変化を遂げる事がほとんどなくなり、そうして、以後約200年間続く国内における洗練と成熟の追求の時代に入る事になります。


中世から近世の料理

おもてなしの料理、椀飯

椀飯おうばんとは、他人を饗応する際の献立の一種で、後には饗応を趣旨とする儀式、行事自体をも指す言葉となりました。

平安時代では、節会や節供等の禁中の行事に、酒肴や菓子等と共に椀に盛った飯を台に据えて振舞いました。
これは、命を受けた公家衆らが調達しましたが、あくまでも大饗だいきょうのような公式な行事とは一線を画し、恒例的なものでも儀式的なものでもなく、いわば弁当や軽食のようなものでした。
鎌倉時代、室町時代には将軍家に大名が祝膳を奉る儀式となり、年頭の恒例として、また、慶賀の時等に行ないました。
応仁の乱後は幕府における椀飯は行われなくなり、その一方で一般の武家社会においては家臣が主君を接待する儀式から、年始や節供等に主君が家臣を接待する儀式へと変質を遂げていきました。
江戸時代においては、年始に江戸在府の御三家が老中以下の幕閣や有力旗本を饗応し、同じく町奉行が役宅で与力らを饗応する事を椀飯と言いました。
こうした風習は民間にも広まり、年始に親類縁者や友人知人を招いて馳走する事を「椀飯振舞」「節振舞」と呼び、これが転じて「大盤振舞」という言葉の語源となりました。


室町時代の武士の宴会料理、本膳料理

本膳料理とは、複数の膳を並べる形式の宴会料理で、室町時代に武士の正式な饗宴の形式として発達し、その後民衆にも浸透し、明治時代以降はほとんど廃れてしまいましたが、昭和30年代までは、冠婚葬祭等の儀礼的な日本料理の正式な形式であり、現在にもその面影を残しています。

先に述べたおもてなしの料理である椀飯は、鎌倉時代から室町時代に掛けて、武家の経済的政治的優位が確立し、幕府政治の本拠地も公家文化の影響が深い京に移るに至って、料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされるようになり、この椀飯から本膳料理が派生したと考えられます。

本膳という言葉が登場する早い例は、一条兼良いちじょうかねら(1402年~1481年)の著作とされる「尺素往来せきそおうらい」です。
これには、客の前の中央の膳を本膳と呼び、次いで追善(二の膳)、三の膳の呼称が現れます。
この「尺素往来」とは、いわゆる往来物という手紙形式の教科書で、この部分の手紙の内容は、まず、手紙の主は、最近自宅内に不思議な事が色々あって占ってもらったら、いずれも吉兆であったという事から書き起こし、そこで「僧衆をうけたてまつつて観音懺法かんのんせんぽうを修して」もらおうという事になり、そして、修法を行って後、いよいよ宴会となります。
本膳等の呼称が現れるのは、この宴会の説明の一部で、招かれた僧は長老始め東堂、西堂、前堂首座、後堂首座とあって、禅僧であり、この本膳という呼称が現れる宴会は精進料理という事が分かります。
しかし、この往来物というのは手紙の文例としても使え、言葉を覚える事が目的で創作されたものですので、食事の実態をどこまで反映しているか疑問が残ります。

本膳料理の実態を記す比較的古い史料として、1459年正月25日の将軍足利義政あしかがよしまさ御所ごしょでの御煎点ごせんてんの記事が、京都相国寺しょうこくじ鹿苑院ろくおんいん内の蔭涼軒主の日記「蔭涼軒日録いんりょうけんにちろく」があります。
これには、まず点心が6点、集香湯、三峯膳、砂糖羊羹、驢腸羹、饅頭、素麺が出た後、菓子7種と茶が出ており、これはときという正式の食事の前の空腹を抑える為の軽食に当たるものと考えられ、斎は精進三之膳とあり、五汁二十五菜に上る料理が出ており、その後、唐餅が出され、再び菓子と茶で締めくくられています。
この饗膳は中央に本膳が置かれ、客から見て右に二の膳、左に三の膳が置かれ、五汁二十五菜というのは数が多すぎて解釈は定かではありませんが、本膳と飯と汁が一つ、二の膳と三の膳には汁が2つずつで五汁出て、二十五菜というのは誤写か何かの間違いと思われ、三の膳であれば七菜から九菜程と考えられます。
本膳では、膳の中に飯と汁が前に並び、向こうに器に盛られた料理が据えられ、香の物が添えられる形式がほぼ確立しています。

七・五・三の膳

本膳料理の正式な形式は七・五・三の膳とされています。
しかし、この七・五・三という数字にはいくつかの解釈があり結論が出ていません。
江戸時代には七・五・三はお菜の数で、本膳に七つ、二の膳に五つ、三の膳に三つの菜が盛られる料理の説明と解釈されてきましたが、これに反対したのは江戸時代有数の故実研究家である伊勢貞丈いせさだたけです。
「貞丈雑記」によると、七・五・三は膳の数で、七は本膳に出すものがご飯であっても、湯漬けであっても、全部で七つの膳を出す事、五は酒宴の料理である肴の膳を五つ出す事、三は一般的なもてなし料理である饗の膳を三つ出す事と記しています。
この主張に近いのは「古事類苑」に引用される「四季草」という史料で、これによると、七・五・三はあくまでも膳の数とし、菜の数え方には◯本立てという言い方があるのだとしています。
七・五・三の膳とは、いわば七の膳まで出る式正の料理の形式と考え、五の膳と三の膳は七の膳に比べて簡略の食事の形を示すという解釈は古くからあり、安土桃山時代末期に日本に来たポルトガルの通辞であるジョアン・ロドリゲス著書「日本教会史」によれば、一番豪華な饗膳は七の膳の料理であるとしています。

「日本教会史」

さらに荘重な七つの食台すなわち盆(七の膳)の宴会では、三十二の料理がつき、その中に八つの汁が含まれ、その五つは魚のもの、一つは貝類のもの、二つは肉のもので、その肉の一つは宴会の主要な料理をなす鶴のものであり、その他すべての料理がそれに添えられる。
そして鶴は日本で最も珍重されている鳥であって、冬に野鴨、白鳥、その他多くの種類の無数の鳥と一緒にタルターリアから飛来する(略)
第二の汁は白鳥のものである。
こうして、日本で最も貴重な鶴と白鳥との二つの料理はこの種の宴会に荘重さを加える。

これらの史料から、七・五・三とは菜の数ではなく膳の数を示すと解釈できます。
しかし、江戸時代になると、その意味が分からなくなったという事は、現実には七の膳とか五の膳といった料理が供される事がなくなった事を意味しています。
本膳料理が武家の式正の饗宴の中で完成されたのは室町時代であり、日本の饗宴は酒礼、饗膳、酒宴の三部により構成されますが、武家の最も重大な公的饗宴であり、主君が家臣の邸を訪れる宴である御成おなりの中の饗膳として、本膳料理が完成されたと思われ、将軍が大名の邸を訪れるとか、大名が家臣の邸を訪れるといった御成は、それを迎える側からいうと、一世一代の盛儀であって、万全の体制でその日を迎える事になり、その為には新造の御成門や御成御殿を造営し、饗応も贅を尽くす事になります。

式三献

御成の形式とその中での本膳料理について、まず最初に宴会の第一部に当たる酒礼、すなわち式三献の儀は、室町時代の記録によると、将軍等の主君の御成の場合、午後二時から三時頃に到着し、当主は門前で主君を出迎え、邸内に案内し、主君は公饗の間という、この格式高い儀式である式三献にふさわしいような、書院造りの様式の中で、より古風な寝殿造りの様式を残す伝統的な空間で行われます。
「十七献之次第」『対馬古文書』という本膳料理の献立に式三献の肴が記されています。

「十七献之次第」『対馬古文書』

初献
 きそく
 小串の物 台かめのこう
 けつり物 台かめのこう さうに
 鳥 台かめのこう
二献
 のし 鯛の吸物
 つべた
三献
 するめ ひしほいり吸物
 たこ

初献の肴は雑煮の他に3点あり、二献は吸物の他に2点あり、三献も吸物の他に2点あります。
初献の肴の小串には、串の手に取る所を金箔、銀箔の紙で飾り付け、その髪飾りの形が亀の足のようだったので、これを亀足きそくと言います。
台は亀甲の型、あるいは文様の台を用いています。
削り物とは楚割すわやりと言われるような干した鮭等を削った古風な食べ物だと思われます。
鳥は焼鳥と考えられます。
膳の中央には雑煮、現在も正月の祝膳に雑煮が据えられるのは、この式三献の初献の肴に据えられる事から分かるように、雑煮は食事でもお菜でもなく、酒の肴であり、したがって現在も屠蘇と組み合わせて食べられています。
以上、小串、削り物、雑煮、鳥に亀足を加えて5種が初献の肴で、この場合、亀足は食べられませんが、料理としては1点と数えるのが約束となります。
ここで亭主にも盃が下され、亭主からは主君へ献進の品物が披露され、二献は熨斗鮑、つべた貝、鯛の吸物で3種で、三献はするめ、たこ、吸物の3種で、こうして3つの盃が巡り終わって座を移し、いよいよ本膳料理の並ぶ宴会の第二部の饗宴に入ります。

「山内料理書」の本膳料理の内容

1497年に記された「山内料理書」には角切りの膳に料理を置いた状態の図が残っています。

「山内料理書」

本膳(一の膳)
 飯 汁 鮓 焼物 かうの物 あをなます 塩引
二の膳
 鯉汁 雉汁ひしをいり 壺入 たこ ひら焼物
三の膳
 わけの飯 冷汁 いか 貝煎 小鳥
引物一
 雁汁 なつ物 かまぼこ
引物二
 鯛とろ~にても かさめ きす
引物三
 蠣 栄螺 干魚

本膳(一の膳)は、「本膳、是は椀の膳の仕様なり、土器の時は汁は居えず、中の飯ばかり居ゆべし、椀の時は塗折敷(後略)」と説明があります。
これが本膳に椀を使った時の並べ方で、土器に飯を盛る時は汁を出さないで飯だけで、椀の時は塗折敷ぬりおしきを使うとあります。
土器に飯を盛る時は膳も白木になると考えられ、神事的な側面が強まれば、一度使いで捨てる事を前提とする白木や土器が用いられ、世俗の宴や僧家の場合は椀も膳も塗り物とする風習があります。
塩引は塩鮭を陰干しにした焼き物で、その他にも焼物の皿がありますが、こちらには「雉子成るべし」と注があり、雉子きじの焼き物と考えられます。
青鱠は本膳の向こう中央に置かれ、これは青味を入れて和えた鱠と考えられます。
香の物は「皮を上になる」と注があり、瓜等の皮の付いている側が上に盛られています。
鮓はなれずしの一種と考えられます。

二の膳は、
「一、鯛焼物をひら焼物と云、かいしきせず。
 一、辛螺、きそくする。
 一、蛸いぼをすきて皮をむく也。」と説明があります。
「ひら」はいわゆる塗りのお平という平椀で、形は角切りの角型で、掻敷は檜の葉や南天の葉を下に敷く事です。
辛螺さざえは身を取り出しやすいように楊枝を刺し、その楊枝に亀足の飾りを付けています。
蛸は吸盤のいぼを落として皮を剥いています。
汁は2種あり、雉汁は「ひしをいり」とあり醬で味付けされていますが、鯉汁は「土器」と容器の注があるだけです。

三の膳の冷汁は、「魚汁たるべし、こだたみ、海鼠汁ふぜいのものなるべし」とあり、魚や海鼠なまこ等の冷たい汁であり、こだたみ汁というのは、海鼠にたでに山芋を加えた汁と江戸時代の料理書に出ます。
わげの飯は曲物まげものに入れて下に土器を敷いた飯です。
貝煎は煎るように煮た貝です。

この後に引物という膳が出ますが、その据え方について「三膳をも二の膳の方に居、引物左に居、三膳以後は三くみ也とも皆引物也」とあります。
この膳の並べ方は後世とは異なり、まず本膳の右に二の膳が据えられるのは後世と同じですが、そのさらに右に三の膳が据えられるのは違う点で、一般的には本膳を中央に右に二の膳、左に三の膳となります。
「山内料理書」の献立には引物が本膳の左に据えられます。
引物とは、引出物という意味と、取り回し物という意味の2つがあり、後世の献立を見ていると、しばしば「引く」という言葉が出てきますが、これは1つの器に盛った物を取り回すという事で、したがって、この引物は引出物として出された別菜と考える事も、膳ごと取り回しにした汁と見る事もできます。
引汁というものが後の献立に現れますが、これは鍋に入れた汁を鍋ごと客の間を取り回し、客は杓子で自分の椀に汁を取り分けました。

引物の一の雁汁は、五度入りという大型の酒杯に入れてあり、吸い口として山葵と杏仁きょうにんが添えられていました。
度入りとは杯の大きさを表し、普通の杯を三度入りというのに対して、五度入りはそれより二まわり大きい杯です。
なつ物は「鮭のはら子」と注があります。

引物の二のキスは、「焼きひたし」という注があり、これは鱗を落とし、それから焼き、さらに汁に浸して煮た料理と考えられます。
鯛は「とろ~にても」とあり、山芋をおろして掛けたものと考えられ、汁ではないと考えられます。
かさめはガザミの事で、はさみが大きくて風向きを見ているようだというので、風見という名の付いた蟹です。

以上、五汁十八菜(十九菜とも見られる)の料理が供されました。

「永禄四年三好亭御成記」の本膳料理の内容

1561年に将軍足利義輝あしかがよしてる三好義長みよしよしなが邸へ御成した時の献立が記されています。

「永禄四年三好亭御成記」

一の膳
 湯漬 和交あへまぜ 塩引 焼物  香物カマボコ含め(鯛)
二の膳
 あつめ汁 海月くらげ汁 辛螺にし 鮹 鯛 カラスミ海老
三の膳
 鯉汁 くぐい汁 擁剱かざめ 小ざし 鳥
四の膳
 鯨汁 貝鮑かいあわび 酒浸さかびち ヲチン
五の膳
 こち汁 うずら 鮨 イカ
六の膳
 えい汁 はむ 赤貝
七の膳
 ふな汁 熊引くまびき しぎ

「日本教会史」に書かれたような、日本で最も貴重な鶴は、残念ながらこの時は手に入らなったようですが、八汁二十三菜と豪華な献立となっています。
本膳、一の膳は、湯漬けに菜は香の物を除いて塩引の焼物、をけ、あへまぜ、かまぼこ、ふくめの五菜です。
桶は、ここには中身は書かれていませんが、これによく似た1522年の「祇園会御見物御成記」の献立では、桶に当たるものにこのわたが登場していますので、この時も同様と考えられます。
和雑は魚の干物を削って野菜を和えたもので、酢の物と考えられます。
フクメはこの時のように鯛と注記してある事が多く、鯛のデンブと考えられます。
飯が湯漬けであるから、飯と汁が一体となったもので、湯漬けであれば汁は本膳に出ないのが約束でした。
二の膳は、辛螺のような大型の巻貝を中央に置いて、左右に蛸と唐墨が並び、鯛と海老が盛られています。
この膳には汁2種というのが決まりらしく、この時も海月の汁と野菜を色々入れた集汁が用意されました。
三の膳は、汁2種と、小さじ(小串)と鳥と蟹のガザミが並べられています。
四の膳の酒浸ては、生魚を酒に漬けたものです。
ヲチンは干魚をほぐしtw辛味を付け、酢で煮たものです。
七五三の膳を記した故実書類に六、七の膳が二菜の場合が多く、この時も同様です。
六の膳のはむははもの事で、七の膳の熊引とは魚のシイラの事です。
菓子の数は9故実書類を見ても9種か12種が多いようです。
本膳が終わると改めて酒宴となり、この場合、本膳前の式三献で出された肴をすでに三献と数えて、四の献から始まられる事が多いようです。
この時は、十献まで進んで休息があり、その後十七献まで続けられ、その間、翁の能から始められた能が全部で十四番演じられ、能が終わると万疋の金が左右五百疋ずつ舞台に積まれました。
長い場合は夜を徹した宴会となり、翌朝午前10時頃に主君の帰還で終了となる事もありました。

本膳料理のその後

本膳料理の機能は、御成の儀礼に象徴されるように、主従の御恩と奉公の関係を確認する為の食事という点にあり、その為、主従の関係、あるいは主君へのもてなし方の重さを料理によって視覚的に表現できるように、膳の数、膳の形式で贅を競うようになっていきました。
本膳料理が主従の契約という儀礼の中で表現される料理であるという性格は、饗応の華美を展示する事に主眼が置かれ、見る為の料理となって、本来の食べる料理の意味が軽視され、結果として本膳料理の形骸化を招く事になりました。
実際に、数多くの膳に平面的に羅列された大量の料理は実際には食べる事のできないもので、別に袱紗ふくさ料理という食べる為の料理が別室に用意されました。
袱紗料理は、本膳形式を略式にした形の実質的に味覚を楽しむ為の料理で、伊勢貞丈が「貞丈雑記」で、「本式にあらざる物にはふくさと云事を付ていふなり」と記しているように、略式のものを呼ぶのにふくさを冠した事による呼称のようです。
「日本教会史」にも、本膳料理はあまりに形式化してしまって、単に眺める為の飾りばかりで食べられない料理になってしまったと記しています。
江戸時代にも、徳川秀忠、家光親子が後水尾天皇を二条城に迎えるといった最も厳重な儀式の膳組みでは、相変わらず見せるだけの豪華絢爛たる本膳料理が並びました。
これは本膳料理の枠を越え、有職料理としてその後も見事な姿は形式として伝承されますが、七の膳のような常規を逸した本膳料理は、江戸時代に入り実用に向けて少しづつ簡素となっていきました。
武家式正の料理として定型化された本膳料理は、簡素化に伴い官民共通するもてなし料理としての「二の膳付き」という様式が定着する事になり、二の膳が付くという事は本膳の汁の他に汁がもう1種付くという事で、二汁五菜の料理で、江戸時代にはこれが城中でも宮中でも家臣、廷臣に下される標準の料理となり、これが袱紗料理であり、江戸時代の料理屋における会席料理もここから発展しました。
本膳料理の約束として、食べきれない料理は必ずお土産として持ち帰る習慣があり、引出物として持ち帰る為に始めから手を付けてはいけない料理があって、客達は自ずとそれを知っていたから、全部の料理に手を付けて食べ散らかすという事もなく、こうした土産の折詰めには福分けの意味もあり、その分も含めて食べきれない量の料理を供するのが本膳料理の特徴でした。
本膳料理の内容は、飯、汁、菜、香の物という4点よりなる日本料理の基本形が備わっており、後は汁と菜の数の増加に従って膳の数が増えるという形式で、これも現在まで変わっておらず、つまり、本膳料理は姿を変えながら現在までの日本料理の基本として命脈を保ってきた事が分かります。


武家や公家の教養、庖丁式

庖丁式とは、平安時代より伝わる、庖丁師により執り行われる儀式です。
庖丁式は庖丁とも言い、庖丁という言葉は料理そのものの意味もありました。

狂言にも「鱸庖丁」という話があり、これは突然遊びに来た甥に伯父が料理を御馳走しようというのですが、実際には食材の鱸は影も形もなく、目の前に鱸があると思え、と伯父が甥に言い、架空の鱸を舌先三寸で料理してみようという話です。
この話の前提として、客に対して式正の俎に衣服も正して臨み、儀式通り料理をしてみせるという事が、客へのもてなしのひとつであったことを示しています。
安土桃山時代末期に日本に来たポルトガルの通辞であるロドリゲス著書「日本教会史」の中に、当時の武士の学芸について記した一節があります。
学芸には「芸」と「能」の2種があり、「芸」は、それで身を立てて職業となるもので、あまり上品とは言えず、書道、音曲、相撲等が挙げられています。
「能」は、武家の習慣からも、高官、武家貴族、公家貴族によってそれ自体名誉とされ、重んじられ行われる学芸であるとされ、弓法を第一とし、第二に蹴鞠、第三は庖丁で、庖丁は、食物を切り分ける事で、彼らの間では上品で常用の仕事であると記されており、まさに庖丁は、武家、公家の重要な学芸のひとつとして伝えられてきました。

安土桃山時代から江戸時代前期に掛けての武将である細川忠興ほそかわただおき三斎さんさい)も庖丁をよくした大名で、ある日、茶の湯の師である千利休を招いて鯉の庖丁を披露しました。
その腕前は見事で、利休も褒めたが、その後に、しかし俎の厚みが少々不足しているように思うと指摘しました。
三斎はそんなはずはないと思い、念のため家臣にただすと、実は俎の表面が汚れていたので、僅か一分程表面を削って白げたと言い、利休の鋭い美の感覚に三斎は驚いたという逸話があります。
千利休もまた庖丁式の道具に至るまで熟知するほどの庖丁に関する教養があった事が分かります。

大大名も自ら庖丁を、すなわち料理の技を披露する習慣は、江戸時代に入ると薄れ、その代わりに専門の庖丁人を招いて料理を振舞った話が江戸時代の茶書に載っています。
大名だった高山右近たかやまうこんがキリシタンに入信して牢人していた時の事、京都四条河原町の辺りに住んでおり、その家へ茶人の清水道閑しみずどうかんが、初夏の頃、宇治へ茶を詰めに行った帰りに立ち寄りました。
招き入れられ、茶室に通ると、右近は茶は珍しくなかろうと言い、道閑が宇治へ茶詰めに行ったのだから、新茶を試飲して来たに違いないと気遣い、あえて濃茶を点てず、薄茶をぬるく量も少なめにして点てました。
小間の茶の後、二間幅の大きな床に利休の半切の手紙が掛けてある書院に通り、ここで料理が出されました。
右近は、ある方からすずきを貰ったと言い、ここで生間いかま流の庖丁人が登場します。
生間家の末流は現在も京都に続いており、萬亀楼まんかめろうの小西家が継承しています。
出てきた料理は2種で、一つは白磁の大皿に鱸の刺身を盛り、生姜酢とからし酢が添えられていました。
当時はまだ醤油が普及していないので、酢や煎り酒が刺身の調味料でした。
もう一つは、鱸のあら汁で、これに香の物と飯で、一汁一菜の献立でした。

庖丁人の歴史

古代の朝廷に膳部かしわでという品部で、朝廷や天皇の食事を用意する仕事に当たる人達がいました。
平安時代になると、高い身分の人々の中に料理を趣味とする者が登場してきます。
鎌倉時代に編纂された世俗説話集「古今著聞集ここんこもんじゅう」に、庖丁の達人として名が高い平安時代末期の公家である藤原家成が、崇徳天皇が仙洞せんとうへ行幸したおりに御前で鯉料理の披露を命ぜられましたが、いざ鯉が運ばれてきても家成が遠慮して手を下さず、周りから天皇まで加わり説得して、やっとその見事な腕前を見る事ができたという話があります。
平安時代末期に編纂された説話集「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」に、逆に庖丁を得意とする人が人々の笑い者になる話もあり、料理が自慢であった左京属の職の官人である紀茂経きのしげつねが、ある日、御所へ伺候すると、贄殿に立派な鯛の荒巻が三本あり、それを下されるというので大喜びした茂経は、その荒巻を上司の左京大夫へもてなそうとを思い、贄殿に自分の使いの者が来たら荒巻を持たせてくれるように頼み、茂経は一足先に左京大夫の邸へ向かった所、丁度客を迎えての宴の最中で、そこで茂経は、さあ俎を洗って持って来いと声高に家来に命じ、まな箸を削り、庖丁を研いで、いまや遅しと魚の到着を待つうちに、ようやく使いの者が荒巻を持ってきて、いよいよ大鯛の料理をご覧に入れようと、藁で包んだまま、俎の上に据え、刀を取り直して縄をぷっと切れば、藁の包みの中からは、誰かが茂経を笑い者にしようと鯛と中身をすり替えたのか、下駄の割れたのやら、古い草履の擦り切れたのや、ぼろぼろの藁靴等が、ごろごろと俎の上にこぼれたものだから、たまらなくなって赤面した茂経は、包丁もまな箸も投げ捨てて逃げ出した、という話があります。
藤原家成や紀茂経は料理人ではありませんが、余技として庖丁を扱い、その余技を持って人々の注目を受ける者で、こうした庖丁人とも言うべき人達が平安時代末期には登場してきています。

四条流庖丁式

室町時代になると、公家方の庖丁として四条流が、武家方の庖丁として大草、進士しんじの両家が成立し、さらに、現在も続く生間流もそうした中で成立しました。
四条流は、中納言藤原山陰ふじわらのやまかげを祖とし、山陰は9世紀後期の人物で、光孝天皇の命により庖丁式を定めたという伝説を持ち、「日本料理中興の祖」ともされています。
山陰という人物の事あとについては決して明らかではありませんが、少なくとも10世紀には、後の流派となる庖丁の家を生むような特定の料理についての約束事が生まれています。
一定の庖丁、料理についての有職が定められ、有職としての約束事、知識が人から人に、さらに家に伝えられるという習慣が生まれ、それを指して現在では有職料理という言葉が用いられ、庖丁の扱い、献立、料理の盛り方、料理の食べ方に至るまで、すなわち亭主、庖丁人、客方全体を包括する料理の規則が整理され、この規則に従った料理が完成し、その完成が同時に庖丁の家、流派の成立であったと言えます。

1489年、室町時代後期、四条流の大意をまとめた料理書として「四条流庖丁書」が書かれています。
俎から、箸、庖丁の事を記した後、雁の皮煎、潮煎、カマボコ、雉の焼き物、刺身、海老の舟盛り、このわた、鯛の潮煮、海月の和え物等、多彩な料理が紹介され、また、四条流では刺身に添えるわさびと塩は接して並べる、酢も添えるべきといった事や、花鰹の使用も記されており、さらに、調理のタブーも詳細に述べられています。
例えば、薬味について、当時は針栗、針生姜を使う事が流行りだったそうで、「四条流包丁書」によれば、それは特定の料理に入れてこそ意味があるので、ホヤの汁に針栗を入れればホヤの毒を生栗が消してくれるのであり、唐鮭(乾鮭)の水和えに針生姜を入れるのは、水の毒を消す事になるとしるしています。
薬味とはまさに薬効の挙がる使用法を持って初めてその効果が現れるものであるようです。
ところが、鮒の子の鱠に近年では針生姜を入れるのが流行しているのはおかしい、と書かれており、単に生姜の辛味が欲しいというなら、卸して使うのが順当であり、それを針生姜にして出すのは、「不審有ベシ、ソコニ口伝有」といって終わっています。
当時の常識から見れば不審な事で、これは書物に書き載せる事はできないから、口伝えの秘伝で教える、とあります。
庖丁人の登場が、特殊な知識である料理における有職故実の成立と一体であるとしたように、料理の有職故実は次に秘伝、口伝として師から弟子に伝授されるべきものとなりました。
料理は本来の美味の探求からだんだん逸れて、秘伝の為の料理に変質してしまいましたが、そういう料理の変質する節目に、「四条流庖丁書」等が登場したように思われます。

料理人の歴史

職業的な料理人の伝統ももちろんありますが、文献的にはあまり残っておらず、平安時代以来の高橋家や、後に興隆する大草家、進士家等の庖丁を家業とする家が成立しますが、個々の料理人については多く語られていません。
僅か三好家の庖丁人である坪内某の話が、江戸時代中期に編纂された逸話集「常山紀談じょうざんきだん」に載っています。
織田信長が三好氏を滅ぼした時、その庖丁人坪内某も捕らえられ、これを信長の料理人にしようと、試しに料理をさせたところ、水臭くて食べられないと信長は激怒し、殺されそうになったが、もう一度試させてほしいと嘆願し作り直したら、今度は信長が大喜びして料理人として摂り立てた、という逸話です。
この理由は、最初は三好家風に上品にしたのであるが、それは信長の口に合わず、二度目は「野卑なる田舎風」にしたという事です。
実話か否かは別として、このような人の知る料理人が京都で活躍していた事は確かなようです。
茶人の千利休の元にも優秀な料理人がおり、利休の曾孫に当たる江岑宗左こんしんそうさが記すところによると、一通という料理人が利休の元にいて、彼の料理の中でもことに房山椒の置き方が素晴らしく、利休は「一通が置き候ほど見事にはない」と絶賛したと言います。
その他にも千利休の家には西道と妙をんの2人の料理人がいたと記されています。
武将はもちろん公家であれ町屋であれ、中級以上の家では専門料理人を置き、饗応に当たらせたのだと考えられます。
江戸時代では、料理店名は残るようになりますが、名人と言われるような料理人の話題はあまり見当たらず、料理人の名前が有名になるのは、やはり近年の事のようです。


南蛮人から伝わったもの

中国人の伝統的世界観によれば、中国文明圏の南方は「南蛮」と呼ばれ、文明化されていない民族の世界であるとみなされていました。
この観念を引き継いだ日本人は、インドや東南アジア、中国南部を経由して日本にやって来るポルトガル人やスペイン人を「南蛮人」と呼びました。
彼らのもたらした料理を南蛮料理、ヨーロッパから製法が伝えられた菓子を南蛮菓子と名付けました。
その後、プロテスタントのオランダ人やイギリス人がやって来るようになり、彼らがイベリア半島の人々と異なる事を知ると、北西ヨーロッパ人を「紅毛人」と呼ぶようになりました。
鎖国後になると、オランダとだけ通商関係を保ったので、紅毛人といえばオランダ人を指す事になりました。

キリシタンと肉食

聖フランシスコ・ザビエルはマラッカで日本人の弥次郎をカトリックに改宗させ、この日本人最初のキリスト教徒を案内人にして、1549年に日本に布教にやってきました。
ザビエルは日本人信者から、人々の感情を損なわない為に、日本では肉を食べないよう忠告され、それに従っていましたが、肉食禁止の食事に閉口したという話があります。
ザビエルに次いで来日した宣教師達の布教が成功すると、キリスト教に改宗した人々は仏教や神道のタブーから解放され、イエズス会の神父と一緒に肉を食べるようになります。
ある神父の書簡によると、1557年の復活祭の翌日、現在の大分市で、神父が約4000人のキリスト教信者を食事に招待し、雌牛一頭の肉と共に米を炊いて振舞ったが、信者達は大いに満足したとあります。

南蛮船が多く入港したのは、九州の長崎と平戸であるが、ここではキリスト教信者ばかりでなく、一般の人々も牛肉を食べるようになりました。
長崎で牛肉の値段が高騰したという記録があるし、これらの地方で食用を目的として豚を飼育していたという記録もありますが、この港には、南蛮船の他に中国船も寄港しているので、豚を食用として飼う事は、中国人からの影響である可能性も考えられます。
教会のミサに欠く事ができないパンも、長崎と平戸では日本人の職人によって作られ、この地にやって来たヨーロッパ人に売られるようになりましたが、日本の食事にパンは普及せず、日本人は食事ではなく果物のようにパンを食べたというヨーロッパ人の報告があります。

鎖国に先立って、徳川幕府はキリスト教を禁止する政令を1612年に発令し、それと共にキリスト教徒的な風習を排除する政策もとられ、まず禁止にされたのが、牛肉を食べる事と、パンを食べる事でした。
当時長崎には中国船も多くやって来て、中国人街も形成され、中国人は日常的に牛肉を食べる風習はなく、豚、鶏、家鴨の肉を食べましたが、中国人の肉食は禁令の対象外でした。

南蛮料理

鎖国が実施されると、オランダ人以外のヨーロッパ人は国外追放になり、オランダ人も長崎港の中の出島に隔離されて居住し、一般の日本人との接触が禁止された為、江戸時代において、紅毛人の食べ物や食事の習慣が日本人に影響する事はあまりありませんでした。
短期間の接触ではありましたが、食文化に関しては、南蛮人の影響の方が大きく、その料理法のいくつかは日本風に変形され現在まで伝わっています。

「南蛮料理書」という書物があり、約40種類の料理や菓子の作り方が記録されています。
その中には、中国起源と思われる料理法や、日本料理も含まれていますが、大部分はポルトガル起源のもので、現在に伝わる写本は、江戸時代末期に書かれたものと推定されますが、原本が成立したのは、鎖国前後の事と考えられています。
「南蛮料理書」に現れる料理法の中には、ポルトガルでは牛乳やクリームを使用すべきものを省略したり、小麦粉を使用すべきものを餅米の粉に変える等、すでに日本的な変形がなされているものがあり、パンの生地を作る時も、イーストの代わりに甘酒を混ぜて、その酵母菌の発酵作用によって膨らませています。

江戸時代を通じて、長崎の家庭料理には南蛮料理がいくつか受け継がれてきましたが、現在に伝わるものは、本来の料理を大幅に改変し、料理名以外は、西洋起源とはほとんど思えないものが多く、獣肉を主材料にするべきものを魚肉に変えたり、乳製品を使用しないように変更したり、味噌、醤油等の日本の調味料を加える等、日本風の料理に変化させています。
長崎で「ヒカド」というのは、鮪、大根、人参、薩摩芋を賽の目状に刻み、醤油で煮た料理で、ポルトガル語で物を小さく刻むという意味の「picado」に語源を持っており、元々は、牛肉を油でソテーして煮た料理でしたが、牛肉の代わりに、同じく赤い色をした鮪を使うよう変更し、料理に油脂を使用する事がまれな日本でソテーの過程を省略して、煮る料理に変化したものです。
東日本では「雁擬き」、西日本では「飛竜頭」という名称で知られる豆腐料理の語源は、パンケーキの一種で、油で揚げ蜂蜜等を付けて食べるポルトガルの「filhses」、スペイン語の「fillos」に由来します。
1784年に発刊された「卓子式たくししき」には、餅米の粉に卵を混ぜた生地を油で揚げて、砂糖の蜜をかけて食べるのがヒリョウズであると記されており、これが菓子に限らず、油で揚げた料理を指す名称に転じ、ついには豆腐料理の名前になったものと考えられます。
現在は日本料理の一つになっている「天ぷら」は、ポルトガル人が伝えた料理法に起源を持ち、ポルトガル語で調理を意味する「tempero」に語源を考える説と、「tempora」という宗教用語に語源を考える説があります。
この宗教用語起源説は、3月、6月、9月、12月の最初の水曜、金曜、土曜日を「tempora」といい、この日には肉を食べずに、魚を食べる習慣があり、この習慣を守って、宣教師が油で揚げた魚を食べていたので、それを見た日本人が油で揚げた魚料理を天ぷらというようになったという事です。
17世紀初期に成立したと思われる、料理の作り方を具体的に解説した日本最初の実用書「料理物語」に、南蛮料理という献立があり、鶏を大根と一緒に水煮してから、その骨を取ってスープに戻し、酒と塩、あるいは味噌で調味し、ニンニク、葱、キノコを入れて食べる料理ですが、この料理が、長崎から福岡に伝わり、さらに変形して現在の福岡の名物料理「水炊き」になったといいます。
「アチャラ漬け」は、大根、蓮根等の野菜を細かく刻み、唐辛子、酢、砂糖、塩あるいは醤油を混ぜて漬け込む料理で、ペルシャ語の「achar」が語源で、ポルトガルに入り、日本に伝えられたとされ、マレー半島、インドネシア、フィリピンでも「achar」というので、必ずしもポルトガル人から伝えられた食べ物ではなく、当時東南アジアに進出した日本人が持ち帰った可能性もあります。

南蛮菓子

長崎名物の「カステラ」は、イベリア半島のカスティリャ地方のケーキという意味のポルトガル語である「ボロ・デ・カステラ(bolo de Castella)」に由来し、料理にオーブンを使用しない日本では、大きな鉄鍋を炭火の上に置き、鉄製の蓋の上にも炭火を載せ、上下から熱してカステラを焼くように工夫しました。
平戸の名物菓子の「カスドス」は、ポルトガル語の「castella doce」に由来します。
愛媛県の名物菓子の「タルト」は、ポルトガル語の「tarta」に起源を持ちます。
ポルトガルの砂糖菓子である「confeito」は「金平糖」、「alfeloa」は「有平糖」、「caramelo」は「カルメラ」という名称で現在にまで伝わっています。
卵の黄身を主材料にして作ったケーキで、ポルトガル語で糸状の玉子を意味する「fios de ovos」は、長崎から福岡に伝わり「卵素麺」となりました。

新大陸原産作物

新しい料理や菓子にも増して、食べ物を巡り社会経済史的に重要な影響を及ぼしたのは、新大陸原産の栽培植物が、この時代の日本に伝えられた事で、スペイン人とポルトガル人が、これらの作物をまず東南アジア、中国にもたらし、そこから日本への伝来は、南蛮人ばかりではなく、中国人や、当時東南アジアと中国との中継貿易に従事していた琉球人によってもなされました。

この時期に伝来した作物の中で重要なのが「薩摩芋」で、スペイン人が新大陸からルソン島にもたらした薩摩芋は、1593年に中国の福建省に伝えられました。
1605年に琉球王朝の使節が福建省を訪れた時に、薩摩芋の苗を植木鉢に植えて持ち帰り、それが沖縄の各地で栽培されるようになり、その後、平戸にあったイギリスの東インド会社の商館長リチャード・コックスが、沖縄から薩摩芋を取り寄せて、平戸で薩摩芋を作り、これが、日本内地における薩摩芋栽培の始まりとなりました。
薩摩芋は、西日本の海に面した、温暖で乾燥した地方で多く栽培されるようになり、特に水田耕作に適さない地理学的な条件の場所が多い、沖縄、南九州、豊後水道周辺地帯、対馬、瀬戸内海の島嶼部等では、極めて重要な主食用作物となり、これらの中には、人々が食物から摂取するエネルギーの60%以上が薩摩芋で占められる地域もあり、これらの米の生産量が少なく、人口が希薄な地方においては、薩摩芋の導入によって人口が増加しました。
「カボチャ」も新大陸原産の作物で、16世紀に、ポルトガル人によってもたらされ、明治時代になってアメリカ合衆国から新しい品種が導入される以前に日本で栽培されていたカボチャは、2つの品種に分けられ、一つは「ボウブラ」というポルトガル語の「abobora」に語源がある品種で、もう一つは中国から伝来した事から「南京カボチャ」と呼ばれる品種です。
カボチャという名称は、カンボジアから伝来した作物であるという伝承に基づき、また、同じものを中国の茄子という意味の「唐茄子」と呼ぶ地方もあります。
「唐辛子」は、1542年にポルトガル人がもたらしたと言われ、それまでは、辛味を持つ香辛料としては輸入品の胡椒が用いられ、江戸時代前期までは、麺類には胡椒の粉を振り掛けて食べられており、唐辛子が導入されると、「唐辛子」という名の他に、「南蛮」、「南蛮胡椒」、「高麗胡椒」等とも呼ばれるようになりました。
「唐」、「高麗」といった地名は、中国や朝鮮半島から伝来した事を示す訳ではなく、「外来伝来の」という意味を表し、それが在来の辛味香辛料である辛子、胡椒に適用されました。
江戸時代には「七味唐辛子」が考案されました。
肉や油脂を食べない日本人にとって、唐辛子は強烈すぎるスパイスと感じられ、消費量は少なく、1970年代になって、肉の消費量が増加する事と比例して、日本における唐辛子の消費量が伸びるようになりました。
「インゲンマメ」は、南米原産のものが中国に伝えられ、1654年に黄檗宗おうばくしゅうの禅を日本に普及する為にやって来た中国僧である隠元が持ってきたので、隠元豆と呼ばれると言われていますが、実際に隠元がもたらしたのは別種の豆であったようです。
南米原産の「落花生」は、中国を経由して18世紀初期に日本に伝えられたので「南京豆」とも言います。


まとめ

今回も、そもそも、日本料理・和食とは何なのか、日本料理・和食の起源とはどういうものなのかという疑問のもとから、日本料理・和食の歴史を学んでみようという想いに至り、この記事を書き始めました。

ここまで、日本料理の歴史を3回に分けて少しづつ学んできましたが、どのように日本料理が形成されてきて、どのような日本料理に形成されてきたというのは、何となく見えてきたように思います。
やはり、その時の権力者の饗応の料理、宴会の料理は、その時の贅を尽くしたものになり、日本の料理として、必然とその時の最高位になっていきます。
また、その時の権力者の嗜好、習慣、思想が料理にも反映され、日本のその時の権力者の移り変わりが、日本料理の形式の移り変わりと重なります。
裏を返せば、その時代にどのような料理を食べているのかという事は、その時代の権力者の思想が分かる手段としても使えるとも言えると思います。
また、これは、歴史的とか、権力者とかに限らず、もっと狭く、自分の身近な人にもその人の思想が分かる手段としても使えそうで、言い換えれば、それほど自身も含め、人が食べる物というのは、その人の思想が反映しやすいものだとも思いました。

中世から近世の人々の食事を学んでみると、ヨーロッパ人の渡来から、日本人も海外に進出し交流し、外来の食文化が伝わり、それが食事にも反映されていました。
戦国時代という戦乱続きで、変動の時代とも言える時代を経た事で、歴史的にも文化的にも食文化的にも、古い秩序が崩壊し、新しい事柄が誕生するダイナミックな創造の時代であったようです。
現在でも受け継がれている、伝統的な日本文化や日本料理である、本膳料理や庖丁式といったものがこの時代にに現れました。
現在での本膳料理や庖丁式といったものは、古き良き日本の伝統的文化として、ある一種の儀式的なものとして残っています。
この辺りの時代に築かれた日本文化、日本料理が現在での日本文化、日本料理の礎になっているように思います。
ですので、この辺りの時代はより詳しく深堀りする為に、次の記事でもこの中世から近世の人々の食事を学んでいきます。

河野裕輔
河野裕輔

先はまだまだ長いっ!

第36回 かわののブログ

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