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【日本料理の研究①】日本の料理の成り立ちとは?日本料理の歴史を学びます!(旧石器時代~古墳時代編)

縄文時代-料理文化の研究


私は、只今、料理人として、自分のお店を開くべく、日々勉強しております。
その中でも、日本料理を基本として学んでおります。

そんな時、そもそも根本的な事を知らないという事に気づきました。

そもそも、日本料理・和食とは何なのでしょうか。
日本料理・和食の起源とはどういうものなのでしょうか。

これを知らずして、語れずして、日本料理の世界に身を置けられないのではと思いました。
日本料理店で提供される、懐石料理、会席料理の意味合いや成り立ち等も語れるようにしておくべきです。
その他にも、米、寿司、味噌、醤油、出汁等の日本料理・和食に欠かせないものの成り立ちも、日本の食文化の歴史を知る事で分かるように思います。
日本の食文化の歴史を知る事で、これからの料理の発想に役立つかもしれません。

という事で、今回は、日本料理・和食の歴史を学びたいと思います。
Wikipediと、
熊倉功夫さん著書「日本料理の歴史」、
石毛直道さん著書「日本の食文化史」、
これらを参考にさせて頂き学んでいきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本料理

河野裕輔
河野裕輔

大和魂ぃっ!


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日本料理・和食の定義

まずは、もそも、日本料理・和食の定義とは何なのでしょうか。

日本のラーメンや焼き肉は、中国や韓国とも違う日本独特の料理ですが、これを日本料理と呼ぶには首を傾げます。
カリフォルニアロールは鮨職人からは鮨として認めない人もいるでしょうが、海外では立派な日本料理として受け入れられているようです。
このような議論はキリがないように思います。
極端に言えば、日本人が作った料理は全て日本料理と言っても間違いではありません。

「日本料理」と「和食」という言葉は、文明開化の時代に日本に入ってきた「西洋料理」や「洋食」に対応する形でできた言葉で、「日本料理」は石井泰次郎による1898年(明治31年)の「日本料理法大全」により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると見られているようです。

「和食」は平成25年12月にユネスコ無形文化遺産に登録されました。
農林水産省がまとめた和食の4つの特徴というものがあります。

和食の4つの特徴

1、多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっている為、各地で地域に根差した多様な食材が用いられています。また、素材の味わいを活かす調理技術・調理道具が発達しています。

2、健康的な食生活を支える栄養バランス
一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは理想的な栄養バランスと言われています。また、「うま味」を上手に使うことによって動物性油脂の少ない食生活を実現しており、日本人の長寿や肥満防止に役立っています。

3、自然の美しさや季節の移ろいの表現
食事の場で、自然の美しさや四季の移ろいを表現する事も特徴のひとつです。季節の花や葉などで料理を飾りつけたり、季節に合った調度品や器を利用したりして、季節感を楽しみます。

4、正月等の年中行事との密接な関わり
日本の食文化は、年中行事と密接に関わって育まれてきました。自然の恵みである「食」を分け合い、食の時間を共にする事で、家族や地域の絆を深めてきました。


このような日本料理・和食の特徴はどのように形成されてきたのでしょうか。
これは、日本の歴史と共に辿っていくと見えてくるようです。
ここからは、日本の歴史に沿って、日本料理・和食の成り立ちを学んでいきます。


先史時代の日本と料理の歴史

先史時代:旧石器時代~縄文時代~弥生時代~古墳時代

旧石器時代

旧石器時代:~紀元前14000年頃

日本に人類が居住していたという事が、現時点で確実に実証されているのは、中期旧石器時代から後期旧石器時代の始まりに掛けての遺跡が発見されている事から、約5万年以前からと考えられています。

旧石器時代の遺跡のほとんどからは、僅かばかりの打製石器と石器を作った際の石屑が出土するだけです。
当時の日本は亜寒帯性の気候で、植物性の食料資源に乏しく、漁労技術は発達していなかったので、狩りの獲物として得られる動物性の食料資源に依存する比重の高い食生活であったと考えられています。
洞窟や岩陰の居住跡や、竪穴住居も発見されていますが、簡単な小屋を一時的に建てたり、運搬可能なテント状の住居に住み、狩りの獲物を追って移動する事の多い遊動的生活が主流であったと考えられています。

日本は世界有数の強い酸性土壌に覆われており、有機質の遺物の保存に適さない為、旧石器時代の遺跡から発見されるのは石器ばかりで、当時の人々の食べた動植物についての情報はあまり得られません。
それでも、岩手県の花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギ等の化石が大量にまとまって発見されています。
また長野県の野尻湖立ヶ鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主として発見されています。

東京都の野川遺跡等からは礫群や配石(置石)が発見されています。
礫群は焼けた拳大の石が数十から100個ほど1ヶ所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見され、礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられています。
また木器や樹皮等による容器に水や食品と共に礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられています。


縄文時代

縄文時代:紀元前14000年頃~紀元前1000年頃

約1万年前に地球規模の気候変動で寒冷で乾燥した氷河期の気候から、温暖で湿潤な後氷期の気候への変化が起こります。
日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道や高山帯に限られ、本州の東側にブナやナラ、クリやクルミ等の落葉広葉樹林が、本州の西側と四国、九州、南西諸島にはカシやシイ、クスノキ等の照葉樹林が広がります。
ナウマンゾウやヤベオオツノジカ等の大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカやイノシシ等の中小哺乳類が増えます。
また、海面の上昇に伴い対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側と共に暖流と寒流の交わる良漁場となります。
このような風土の変化に伴い、旧石器時代の打製石器から磨製石器へと発達し、縄文土器が用いられ、縄文時代が始まります。

土器を用いて煮る事が発達し、採集による植物性の食品の利用が増えました。
クルミ、ドングリ、クリ、トチ等の堅果類を竪穴式住居の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土しています。
クルミは脂質を多く含み生でも食べられますが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含み、生のベータデンプンは消化されにくい為、水と熱とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要があります。
またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿と磨石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをし、トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、灰を加えて煮る事で灰汁抜きをし、またクズやワラビ、ヤマノイモやウバユリ、ヒガンバナ等の野生の芋類も、アルカロイド等の毒を水に晒す等して除去し、デンプンを利用したと考えられています。

これらの堅果類の生産性は極めて高く、クヌギの実の10aあたりの生産性は65kgで、これは一定の土地から生産される食糧エネルギーに換算すると最も生産性の高い作物であるイネを水田耕作した場合の8分の1に達し、当時の最も一般的な狩猟対象動物であったイノシシの500倍に当たります。
旧石器時代と縄文時代初期の主として狩猟の獲物に依存する食生活から、堅果類を主とする植物食料主体の食生活への移行によって、縄文時代初期の約2万人程度であった日本の人口は、紀元前2000年頃の縄文時代中期には26万人にまで増大したと推定されています。
堅果類は落葉広葉樹林帯の産物で、この樹林帯は日本列島の東北部に分布するので、縄文時代の人口の大半は東北日本に集中し、照葉樹林帯の西南日本の人口は希薄でした。

料理としては、堅果類等のデンプンを捏ねて灰の中で焼いたビスケットやクッキーのようなものが出土しています。
また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て粥状にしたものも考えられています。
食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物や吸物のような羹や、鍋料理のようなものが考えられています。

縄文時代の後期になると、海水を煮詰めて塩を作る為の製塩用の土器も出現します。
塩の他の調味料としてはサンショウが発見されています。


世界と日本の違い。農業欠如の新石器時代。

紀元前8000年頃から紀元前6000年頃には始まったとされる新石器時代とは、新石器革命と呼ばれる変革が起こった時代です。
新石器革命とは、人類が農耕・牧畜を始めた事と関連して定住生活を行うようになった一連の変革の事を言います。
しかし、日本の新石器時代に当たる縄文時代は、ユーラシア大陸中心部で展開した新石器社会とは異なる性格のものでした。
土器と磨製石器の製作という、世界の新石器時代社会に共通する技術は持ちながらも、本格的な農耕は行わず、食用、乳用家畜の飼育もせず、狩猟と採集に食料を依存する比重の高い新石器文化となっています。

縄文時代の日本は農業社会ではありませんでしたが、栽培作物を全く欠如していた訳ではなく、穀物では、ソバ、オオムギ、アワ、リョクトウ、エゴマ、ヒョウタン等が縄文時代中期までの遺跡から発見されています。
これらの作物のいくつかは、朝鮮半島からシベリアの沿岸部に掛けた地帯から伝えられた可能性が高く、のちの時代になると、焼畑耕作の作物として本格的に栽培される事になります。
しかし、縄文時代には、これらの作物の発見される量や、発見地の数は著しく少なく、現在までに1000ヵ所以上の縄文時代の遺跡が調査されていますが、その研究結果を総合して、巨視的に見た場合、縄文時代の日本は狩猟採集社会であったというのが妥当のようです。

縄文時代における唯一の家畜はイヌです。
縄文時代の遺跡から70種の哺乳類の骨が発見されていますが、主要な大型の狩猟動物はシカ、イノシシで、多くの遺跡で発見される獣骨の90%以上が、この2種類の動物で占められています。
シカ、イノシシを猟犬によって追い出して狩猟する事は、1万年以上前から行われており、狩人の伴侶であったイヌは大切に扱われ、埋葬された事例も多く発見されています。
ただし、本格的に農業を開始した弥生時代になると、切断されたイヌの骨が遺跡から良く発見され、イヌも食用に供するようになった事が伺われます。

世界の狩猟採集文化の中でも、縄文文化は、海での漁労活動に食料を依存する比重が大きいです。
縄文時代早期の貝塚からもマグロやカツオ等の外洋魚の骨が発見され、船で外洋にも進出していた事が分かります。
骨製の釣り針、シカの角や骨で作った銛や、植物性の原料で製作された為に遺物として発見されませんが、漁網の錘等の漁具が貝塚から発見された事から、漁網やヤナ等の様々な漁具もあったと考えられています。
縄文時代の貝塚からは71種類の魚骨が発見されています。
縄文時代の関東地方は、非常に多数の入江を持つ地形で、遠浅の海に囲まれ、この入江は干満の差が大きく、潮が引いた時には貝類の採集が容易な事もあり、関東地方には貝塚が多く、全国の貝塚の60%が集中しています。
貝塚からは354種類の貝類が発見されていますが、二枚貝の占める割合が高いです。
貝塚における二枚貝の堆積状態を検討すると、一度に大量の貝を採集し、茹でた後で貝殻だけを捨てた例がいくつも発見されている事から、茹でて、貝の実だけを取り出し、それを乾燥させて保存食品化した事が考えられます。
そのような貝塚から、何百㎞も離れた山地にある黒曜石で製作した石器が発見されている事から、干し貝が交易物資として内陸の山岳地帯に運ばれたものと推測されます。


弥生時代

弥生時代:紀元前1000年頃~紀元後300年中頃

弥生時代の定義は、発掘調査の進展に伴い大きく変化してきています。
現在では、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化・弥生時代とする見解が示されています。

稲作と栽培種イネは、アフリカのニジェール川周辺に起源するアフリカイネと、アジアに起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがあります。
アジアイネは、紀元前1万年頃の中国の長江流域からイネの資料の発見、紀元前6000年頃の湖南省彭頭山遺跡から籾殻の混じった土器の発見、紀元前5000年頃の浙江省河姆渡遺跡から約400平方メートルの範囲に籾殻等が堆積していて、鋤や臼と杵等も伴うほぼ完成された水田稲作の痕跡が発見された事等を根拠として、中国の学者はアジアイネの中国起源説を主張しています。

アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ないインディカ種と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多いジャポニカ種とに大別されます。
弥生時代に日本列島に伝わった稲はジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれましたが現在に至るまで広く普及はしていません。
またインディカ種とジャパニカ種と共に、デンプンのひとつであるアミロースの含有量で、もちうるちとも大別されます。
弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行した事、記紀などに糯や餅が登場しないこと、糯という字が奈良時代の「正倉院文書尾張正税帳」が初出である事等から粳であったと考えられています。
しかし縄文時代の陸稲等は中国南部や東南アジアから糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもあります。

縄文時代中期以降の本州や九州等の遺跡では、イネ、オオムギ、コムギ、アワ、ヒエ、キビ等が発見され、福岡県のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されています。
しかし、日本や朝鮮半島では野生種のイネは発見されていません。
縄文時代に中国から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられています。
また福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡等で、用水路や畦が整備された縄文水田が、木製の鍬や石包丁等の農具を伴い発見されています。
この日本で発見された農具の石器が、中国の長江下流デルタ地域で発見された物と型が同じ事から、日本の稲作は、中国の長江下流デルタ地域に起源すると考えられていて、その伝播ルートは、長江下流デルタ地域から朝鮮半島を経て、あるいは直接、対馬海流に乗って航海した移民が、北九州に辿り着いて稲作を開始したと考えられています。

九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に近畿地方まで伝わりますが、東日本には伝わらず停滞する時期があります。
これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だった事、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受け入れやすかった事、当時の稲が寒冷地である東日本に適していなかった事等が考えられています。
紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種等により、本州最北端の青森県まで水田稲作文化が伝わりました。
一方で北海道と沖縄や南西諸島では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、北海道では続縄文時代と呼ばれ紀元1000年頃まで続き、沖縄や南西諸島では、貝塚時代の後期とも呼ばれ紀元1300年頃まで続き、独特な文化の地域としての歴史を辿る事になります。

初期の稲作に使用された農具は石器によって加工された木製の鍬やシャベルで、収穫には石包丁を使っていました。
初期の水田は自然の湿地に設けられましたが、自然地形を利用した農業では、水田として利用可能な面積は限られるし、干ばつや洪水の被害を被る事も多かったと考えられます。
このような不安定な農業段階から抜け出し、農業の生産性が飛躍的に高まったのは、紀元前後の時代に鉄製の農工具が普及し始めた事によると推定されます。
鉄器の使用によって、貯水池や水路等の人工的灌漑施設を作る事が可能となり、低湿地以外の地形の場所にも水田の開発が進行し、灌漑水路を設けて降水量の変動にそれほど影響を受けずに安定した米の生産を行う事が出来るようになりました。

世界的に見て、人工が急増する時期は、農業革命の時代と、産業革命の時代である事が知られています。
日本の場合も例外ではなく、紀元前後の時代の日本の総人口は約60万人と推定され、これは縄文時代における最大人口の約2倍となります。
紀元前200年頃から紀元元年頃までの200年間で人口は3倍に増加したと言われています。
特に、西日本における人口増加は著しく、弥生時代の人口は、縄文時代の20倍に達します。
稲作と金属器の文化をいち早く取り入れ、中国と朝鮮半島からの文明を輸入する為の地理的条件が有利な西日本は、東日本に比べて先進地域としての優位性を獲得しました。
農業生産の余剰に経済的基盤を置きながら、石器や金属器の製造に従事する専業の工人の集団が出現する等、西日本でまず社会的分業が成立し、社会の階層化が進行し、小さな集落の集合体であった部族社会が、より大きな政治的、宗教的単位に統合され、西日本にいくつもの首長国が成立します。
中国文献における日本についての具体的記述の初出は漢書地理志で、これには紀元前後の日本には100余りの小国が分立していたと記されています。
「魏志倭人伝」では紀元後239年に複数の首長国がある中、卑弥呼の統治した邪馬台国が魏に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されています。
また、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「生姜や柑橘類、山椒、茗荷があるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」等、料理や食事に関する記録もあります。

水田稲作が普及しても農耕のみを基盤とした訳ではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていました。
またプラント・オパールの調査から、全面的に稲を長期に渡って栽培した訳ではなく、キビ属等も栽培され生産量も多かったと考えられています。
種子の遺物からも雑穀等と呼ばれるアワ、ヒエ、キビ、ムギ等の穀物や、マメ、ソバ等の準穀物も多く出土しています。
ドングリ等の堅果類は稲を超えて多く出土しています。
猪と鹿は引き続き狩猟の重要な対象でしたが、田畑を荒らす害獣駆除の側面もあったと考えられています。
また鹿に対する猪の割合が増え、頭蓋骨の変化から猪が家畜化され豚となったものも含まれていると考えられています。
豚に加えて牛、馬、鶏が持ち込まれ飼われていましたが多くは出土せず、また鶏は食べる対象ではありませんでした。
犬は猟犬としても用いられましたが、埋葬されず解体痕等から食用の対象にもなりました。
豚、牛、馬等の飼育は、農耕の傍らの小規模なもので乳の利用などを目的としたものではなく牧畜ではありません。
漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などでコイ、フナ、ナマズ、ドジョウ、タニシ等を対象とした淡水での漁撈が行われます。
また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられ、内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や蛸壺漁等が行われますが、巨視的には衰退します。
農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしています。


古墳時代

古墳時代:300年中頃~700年頃

3世紀に奈良県纒向遺跡に登場した巨大な王墓前方後円墳等の古墳は、各地に広がり、この時代を古墳時代と呼ばれています。

水稲耕作については、弥生時代以来の小区画水田が作られ続けていますが、この時代の小区画水田は、静岡県静岡市の曲金北遺跡や、群馬県高崎市の御布呂遺跡・芦田貝戸遺跡等のように、小区画が数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田面を形成する例が全国的に見られるようになりました。
また、東西、南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになります。
例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山県岡山市の中溝遺跡例等があり、水田の一筆の広さが150~200平方メートルを測ります。

朝鮮半島から伝わった須恵器にはこしきという米等を蒸す為の土器が多数発見される事から、米を蒸しておこわにしていたと考えられています。
また従来の炉に変わってかまどが住居に設けられています。


先史時代の料理

米の料理方法

アジア原産のイネは、ジャポニカ種とインディカ種に大別されます。
絶滅した品種を含めると、日本では約2000品種のイネが作られましたが、そのほとんどはジャポニカ種です。
11世紀以降になって、インディカ種が何度か日本に導入されましたが、大規模には栽培されませんでした。

弥生時代の素焼きの土器で、外側に煤が付いており、内側には米粒がこびり付いている物がいくつも発見されています。
この事から、弥生時代も現在と同じく、米に対する水の量を適当に調整し、炊き上がった米が全ての水分を吸収して、固形の飯を作る炊き干し法で飯炊きをしたと考えられています。
ところが、古墳時代である5世紀以降、須恵器で作られたは甑という米等を蒸す為の土器が多数発見されるようになります。
8世紀前半に活躍した山上憶良は、「万葉集」に収録された「貧窮問答歌」の中で、民衆の貧しい生活を
「かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて」
と表現しています。
「竈には火の気もなく、蒸し器には蜘蛛の巣が張り、米を料理する事も忘れてしまった」
という意味です。
他の文献記録からも、11世紀までは米を蒸して食べる事が多かったと分かります。
しかし、13世紀以降から現在まで、日本での日常的な飯炊きは、炊き干し法でなされています。
これをどう解釈するべきか。
遺跡から発見される米は、炭化した状態で発見されるので、それが粳米か糯米かどうかを化学的に分析しデンプンの種類を判別する事は困難です。
何故、古墳時代から平安時代まで、おこわが好まれたのか。
その解答は、今のところ提出されていません。

先史時代の精米方法は、籾殻を稲粒から落とす為、木製の臼に稲粒を入れ、長い棒状の竪杵たてきねで搗いていました。
これは現在も東南アジアの田舎で行われており、この方法では、籾殻だけでなく、米糠の部分もある程度剥げ落ちます。
すなわち、籾落としの作業と精白の作業を兼ねており、糠を完全に落とした白米は、元の稲粒の90%程度の歩留まりですが、竪杵で搗いた米の歩留まりは95%程度となります。
いわゆる現在の玄米、籾殻を外しただけで完全に果皮に覆われている玄米とは異なります。


酒の成り立ち

アルコールは、酵母が糖類に作用して発酵する事によって出来ます。
酵母は自然界にいくらでも存在するので、原始的な酒造においては糖分の高い液体を用意して、発酵に適した環境を整えれば酒を造る事は可能です。

関東、東北地方の縄文時代後期の遺跡からは、複雑な装飾を施した土瓶のような形の注口土器が発見され、これは果実酒の容器とかんがえられています。
しかし、縄文時代にアルコール飲料があったかどうかは、実証する事が困難となっています。
縄文時代の遺跡から発見された当時の野生植物の内、果実酒の原料になりうるものには、ヤマブドウ、カジノキ、ガマズミ、エゾニワトコ、サルナシ、キイチゴ等があり、青森県の三内丸山遺跡からは、エゾニワトコ、サルナシ、キイチゴの種子がまとまって発見されるので、これらの実の汁を搾って果実酒造りをしたのではないかと言われていますが、これは明らかになっていません。
歴史的文献資料で探索した限りでは、19世紀後半にワイン造りの技術がヨーロッパから伝えられるまでは、日本には果実酒を発酵させて造る酒造の伝統はなかったと考えられています。
桑酒、柿酒、楊梅やまもも酒、梅酒等の名称が文献に現れますが、これらは果実をアルコール原料として発酵させたものではなく、米で造った酒や焼酎に果実を漬けて造った混成酒の事と考えられています。
日本だけでなく、中国、朝鮮半島でも、歴史的文献からすると、果実酒、蜂蜜酒、樹液の酒等が本格的に造られる事はありませんでした。
これらの事から、縄文時代にはアルコール飲料は存在しなかった可能性が高いと言えます。

果実酒造りは、果樹の栽培化が始まり、果実が大量に収穫されるようになって普及したと考えられます。
世界的に、酒造は農業社会において発達してきました。
農業社会になると、デンプン質の多い作物が主食作物として選択され、これが酒造原料ともされるようになりました。
穀物や芋類のデンプンを原料として酒を造る為には、酵素の作用を利用して、デンプンを糖分に変える必要があります。
世界のデンプンを主原料とする酒は、デンプンを糖化する方法の違いにより、「口噛み酒」、「モヤシ酒」、「カビ酒」と分けられます。
「口噛み酒」は、穀類や芋類等のデンプンの多い作物を生のまま、あるいは加熱した後、口で噛むと、唾液の中の液化酵素によりデンプンが分解して糖分が生成されます。
そこで、材料を噛んでから、唾と一緒に吐いて容器に入れておくと野生酵母の働きでアルコール発酵が起こり、やがて酒になるという、最も原始的な酒造りです。
「モヤシ酒」は、穀物に吸水させて発芽させた物、すなわちモヤシの糖化酵素を利用した酒造りです。
麦芽(モルト)で造るビールがその代表です。
「カビ酒」は、カビ、すなわち麹を使用した酒造りです。
麹とは、デンプン質の原料に、コウジカビ等のデンプンを糖化させる働きを持つカビを繁殖させた発酵スターターです。
糖化させたい原料に麹を加えて、カビが繁殖しやすい温度、湿度を保つと原料全体にカビが生えてデンプンを分解し、発酵作用が起こります。

先史時代の日本の酒造りというと、8世紀の始めに編纂された「大隈国風土記」逸文に、現在の鹿児島県南部に当たる地方では、
「村の中の一軒に水と米を用意して、村中に知らせると、男女がそこに集まり、米を噛んで、酒造り用の容器に吐き入れて帰る。酒の香りがするようになると、再び集まって、これを飲む。」
という意味の文章が記されています。
口噛み酒を造る風習は、沖縄を含む南西諸島、また、北海道のアイヌの人々が口噛み酒を造る習俗が報告されています。
沖縄でも、北海道も、口噛み酒は特定の祭の儀礼に供えて造るものであり、この際、米を噛むのは女性に限られていました。
また、5世紀に朝鮮半島南部から移民してきた須須許里すすこりという人物が、先進酒造技術を有していて、彼が醸造した酒を当時の天皇に献上したという記録残されています。
この須須許里が麹による酒造り、カビ酒を伝えたという説がありますが、稲作が日本に伝わった頃、中国では既に麹を利用した酒造りを行っており、主食としての飯炊きと並んで、重要な米の加工法である酒造りの技術は、稲作と共に日本に伝えられたと考えられ、弥生時代から口噛み酒だけでなく、麹を使用した酒造りの技術もあったと考えられています。
麹による酒造りにも様々な方法があり、10世紀の日本の宮廷いおいては15種類の酒が造られていた事が知られており、須須許里は麹を使用した酒造りの内の一つの技術を伝えたのであろうと考えられています。

また、麹は、デンプン質の原料の種類、形状、加熱の有無、培養する環境の状態によって生じるカビの種類は変わってきます。
中国、朝鮮半島で通常使用する麹は、生のコムギを粗挽きにしたものに水を加えて練り固め、ブロック状に成形して、その表面にカビを増殖させた「餅麹」です。
そこに繁殖する主なカビの種類はクモノスカビやケカビです。
これに対して、日本で利用されるのは二ホンコウジカビであり、ブロック状ではなく、米を蒸して、米粒の一粒ずつの表面にカビを培養した「撒麹ばらこうじ」です。
コムギを原料として麹を造る技術は、古代の東アジア文明の中心部であった中国北部でコムギの栽培が盛んになり、それを粉にして食べる習慣が広まった紀元前200年以後の事であると考えられ、中国北部で成立した餅麹造りの技術が、陸続きの朝鮮半島にまで広まったと考えられています。
しかし、穀物を粉にして食べる方法が普及しなかった日本では、米の粒に麹を培養する撒麹造りが現在まで続いています。
何故このような違いが生まれたのかという事を証拠立てる資料は、現在も得られていません。
また、酒の原料として、中国や東南アジアでは糯米を使用する事が多いですが、日本酒は粳米で造られているという違いも見受けられます。
こうしてみると、アジアで発達した米を原料とするカビ酒造りの中で、日本酒は独自の酒造法を発達させたものと言えます。
17世紀以降、サツマイモの栽培が盛んになった地方では、それを原料とする蒸留酒である芋焼酎の製造が行われるようになりますが、それまでは、日本のアルコール飲料は、まれに粟酒が飲まれた事を例外として、ほとんどが粳米を原料としていました。


塩辛の成り立ち、塩辛から味噌や醤油へ

塩辛とは、魚、甲殻類、烏賊、貝類、鳥獣の肉等に30%前後の塩を加えて、液体の漏れない容器に長時間置いて造った保存食品です。
塩の作用によって腐敗を防止しながら、主として原料の肉や内臓に含まれているタンパク質分解酵素の作用で、タンパク質の一部が分解してアミノ酸が生成される事によって、独特のうま味と塩味が生まれます。
塩辛を長時間保存しておくと、魚肉や内臓が全て分解し、液体状になり、この液体を魚醤と言います。
かつての日本では、多くの地方で魚醤が造られていましたが、現在では、秋田県でしょっつる(塩汁)、奥能登でいしる(魚汁)、香川県でいかなご醤油が製造されています。

日本における塩辛の文献的初出は、694年~710年に宮廷があった奈良県の藤原京跡から、地方より税として送られた品物に付けた木製の荷札である木簡の一つにフナの塩辛を意味する「鯽醢ふなのひしお」と書かれたものです。

塩辛の成り立ちとしては、水田稲作との相関が強い事が考えられ、塩辛を伝統的に造ってきた地域は、伝統的に水田稲作を行ってきた地域と、その分布域が一致します。
水田は稲作の場であると同時に淡水魚の棲息地でもあります。
人々は稲作に従事すると共に、水田そのものや、灌漑水路での小規模な漁業に従い、稲作と淡水漁業がセットになった生産様式が展開されていたと考えられています。
さらに、雨季に河川が氾濫して、水田と河川が一続きとなり、河川の回遊魚が水田の中に入り込んで産卵し、その後、雨季が終わり、水田を満たしていた水が河川の主流に向かって引いていく時に、漁具を仕掛けると、短期間に大量の魚が獲れます。
ただし、この時期に獲れる魚は孵化後間もない稚魚が多く、普通の料理の材料には適さない為、このような魚を塩辛し、保存食としていたと考えられます。
現在の日本、朝鮮半島等の塩辛は、海水魚を原料とする事が多いですが、これは、水田の淡水魚の加工として始まった塩辛造りが、大量の原料を得る事ができる商業的な海の漁業に依存し、海水魚を原料とするものに変化していったとかんがえられます。

中国では、発酵性の調味料を「醬」と称し、周王朝(紀元前1050年頃~紀元前256年)の宮廷では、料理の種類に応じて様々な種類の醬が調味料として使用され、醬を造る専門の役人がいた事が記録から判明しています。
周代の醬は、肉や魚を原料とした塩辛である、肉醤や魚醤でしたが、その製造工程に麹や酒を一緒に混ぜ、麹から糖分が生成され、酒を加えているので、糖分の発酵によるアルコールと、加えた酒によるアルコールから生成された酸によって、単純な塩辛よりも風味が良い、超動く独自のものとなっています。
漢代以降になると、肉や魚の変わりに、原料の長期保存や運搬が容易である、加熱した穀物や豆類、特にダイズを使用する醬が造られるようになります。
こうして、中国では、塩辛から穀醬や豆醬への変化が起こり、それがやがて日本に伝わり、日本では醤油や味噌への変化が起こったと考えられます。

塩辛に似た食品にナレズシがあります。
ナレズシは、塩をした魚に米飯を加えて、甕に入れて長時間保存したものです。
米飯が発酵し乳酸が生成される為、酸っぱい味になりますが、塩辛のように魚肉が分解されることなく、魚体を保ったまま1年以上保存できます。
かつての日本では、多くの地方でナレズシが造られていましたが、現在では、琵琶湖周辺の名物である鮒寿司等、限られた地域で製造されています。
中世までは、スシと言ったらナレズシの事でしたが、15世紀以後に短時間で造るスシが出現し、これがスシの主流となり、古代から造られてきた保存食品のスシを、「熟成したスシ」という意味のナレズシ(馴鮓、馴鮨、熟鮓、熟鮨)と呼ぶようになりました。
スシの語源は「酸し」、すなわち酸っぱいという言葉であると言います。
日本では、8世紀以降ナレズシの様々な記録があり、10世紀頃までのナレズシの原料には、海水魚もありますが、淡水魚で造ったものが多く、塩辛の伝統を強く残す食品と言えます。


まとめ

今回は、そもそも、日本料理・和食とは何なのか、日本料理・和食の起源とはどういうものなのかという疑問のもとから、日本料理・和食の歴史を学んでみようという想いに至り、この記事の書き始めました。

旧石器時代からの人々が、どのような食事をしていたのか、どのような料理をしていたのか、というものを学んでいくにつれて、米が主食になった経緯、酒の成り立ち、味噌や醤油の原型とも言える塩辛の成り立ちがみえてきました。

日本料理・和食の歴史という観点で言うと、この旧石器時代から古墳時代までの先史時代には、現在でいうところのいわゆる日本料理の原型というものも見えてきていません。
まだまだ長くなりそうなので、一度ここで区切り、何回かの記事に分けて、この日本料理・和食の歴史に迫りたいと思います。

河野裕輔
河野裕輔

先は長いっ!

第34回 かわののブログ

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