私は、只今、料理人として、自分のお店を開くべく、日々勉強しております。
その中でも、日本料理・和食を基本として学んでおります。
そんな時、そもそも根本的な事を知らないという事に気づきました。
そもそも、日本料理・和食とは何なのでしょうか。
日本料理・和食の起源とはどういうものなのでしょうか。
という事で、前回は旧石器時代から古墳時代までの先史時代の日本料理・和食の歴史を学びました。
今回も、前回に続き、日本料理・和食の歴史を学んでいきます。
Wikipediと、
熊倉功夫さん著書「日本料理の歴史」、
石毛直道さん著書「日本の食文化史」、
これらを参考にさせて頂き学んでいきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本料理
にっぽん!チャチャチャ!
古代から中世の日本料理の歴史
古代:飛鳥時代~奈良時代~平安時代
中世:鎌倉時代~室町時代
古墳時代:300年中頃~700年頃
飛鳥時代:592年~710年
奈良時代:710年~794年
平安時代:794年~1185年
鎌倉時代:1185年~1336年
室町時代:1336年~1573年
日本的食文化の形成期
古墳時代が終わり、飛鳥時代から室町時代後期の15世紀末頃までを、石毛直道さん著書「日本の食文化史」では、「日本的食文化の形成期」としております。
「日本的食文化の形成期」とは、中国文明において形成された食に関する文化を吸収して日本的に変化させ、独自の食の文化の基本を築いた時期です。
10世紀になるまでは、中国や朝鮮半島の食べ物や食事の慣習を輸入し、模倣する事に努め、それ以降は、海外からの影響を消化して、日本人の嗜好や習慣に合うものに再編成し、現代まで継承される日本的な食生活が確立されました。
中国文明の受け入れ
16世紀に西欧の文明と接触するまで、日本にとって規範とすべきは中国文明でした。
この事は、ベトナム、朝鮮半島等の中国周辺の諸民族でも同じで、これら中国と陸続きの国々は、文明の中心地との直接的な交渉も容易であるし、歴史的には中国の直接的な支配も経験しています。
それに対して、海で隔絶された地理的条件にある日本は、中国の支配下に編成される事なく常に独立を保ち、その文明を強制される事がなかった為、中国文明を一つの体系として丸ごと受容するのではなく、文明を構成する要素に分解して、その中から自分達の好む要素だけを選択的に取り入れる事が可能でした。
すなわち、中国文明から多大な影響を受けながらも、中国文明の脱コンテクト化によって日本らしさが形成されました。
古墳時代から7世紀後期までは、朝鮮半島を仲介して中国文明が日本に伝えられた時期で、この頃の朝鮮半島には、百済、新羅、高句麗の三国が並立していましたが、日本の天皇の政権は、5世紀になると百済と連合関係を結んで、軍事的に朝鮮半島に介入するようになりました。
7世紀中期、中国の唐王朝と連合関係を持った新羅が、高句麗、百済を滅亡させ、朝鮮半島を統一する国家となりました。
この際、百済に多数の援軍を送った日本は、663年に新羅と唐の連合軍に大敗し、以後朝鮮半島から撤退します。
このような情勢の下で、当時の日本にとって先進技術も持つ朝鮮半島からの移民が盛んに行われ、百済、高句麗の滅亡に際し日本にやって来た多数の難民が、大陸の文明をもたらしました。
6世紀になると、日本は朝鮮を経由せず、中国文明を直截受容するよう、政策を転換します。
220年に漢王朝が瓦解した後、長い間中国はいくつもの国家に分裂していましたが、581年~618年に隋王朝が統一し、それを引き継ぎ、618年~907年に唐王朝が、それまでの中国歴史の中で最大の版図を持つ巨大帝国を形成し、当時の世界で最も先進的な文明の中心地となりました。
周辺の諸国家は、唐の制度や文化を自国に移植する事によって近代化を懸命に試みました。
日本も例外ではなく、600年に遣隋使を派遣して以来、838年に最後の遣唐使が出発するまで、合計17の日本の公式使節団が中華帝国の首都を訪れました。
1回の使節団は、大使以下250~500人で構成され、その中には中国に長期間滞在する留学生や留学僧達が含まれ、政治や行政の制度、法律、学術、文学、医学、薬学、美術、仏教、技術等を修得し、それらに関する文献を収集して日本に持ち帰る事、すなわち文明の学習が、使節団の果たすべき役割でもありました。
日本らしさの形成
894年、唐王朝が衰退し、内乱が相次ぐ情勢にあった事、中国への航海が危険を伴う事、中国の商人が日本にやって来るようになり、巨額な国資を投じて、中国との文化接触を保つ必要が無くなった事を理由に、菅原道真により遣唐使派遣が廃止となりました。
これは、日本文化が、中国の模倣から脱却し、独自性を発揮し始めた時期にも当たります。
武士の文化へ
10世紀後期から11世紀前期は、京都の宮廷を中心とする貴族文化が最も繁栄した時期ですが、一方地方では、政治的関心よりも、宮廷文化への参与に熱心で、地方の統治能力を欠くようになった貴族に変わり、地方の武士達が権力を持つようになりました。
貴族の荘園の警護役であった武士達が連合を組み、大きな軍事集団に発展し、宮廷に政治的関与を行うようになり、ついに、1185年、鎌倉幕府が設立されました。
近代以前において、多くの国で、洗練された料理技術や食事作法を発達させたのは、宮廷であり、日本の古代においても例外ではなく、宮廷には税として徴収された全国の産物が集まり、それを調理する専門の料理人集団があり、様々な種類の酒を造る役所もありました。
しかし、武士が政権を担うようになって以降、宮廷は経済的にも衰退し、食文化の中心地としての機能を失い、その後の宮廷の食事は、儀式的、形式的な側面を強調するばかりで、実質的な栄養や、美味しさとは無関係なものとなり、中世以来、近代に至るまで、日本の宮廷は、民衆の食事に影響を与える事はほとんどなくなりました。
新しく政権を取った武士の多くは農民出身で、自らも領地を経営し、農業生産にも参与し、そこで、自給自足的な経済を重んじ、簡素で実質的な食事を良しとし、食事における洗練、形式化、贅沢とは無縁である事を誇りとする倫理規範を持っていました。
この性格は、江戸時代にまで引き継がれます。
古代、中世においては貴族の、その後の時代においては富裕な商人達の享楽主義に対立する存在が、武士の禁欲主義で、19世紀中期まで続く武士の統治下で、禁欲主義に基づく生活が道徳的であるという倫理が強調され続ける事となります。
古代から中世の料理
平安時代の貴族の宴会、大饗
飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族である長屋王の邸宅址から発掘された木簡等から、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していた事が伺えますが、その具体的な形式は不詳です。
それが発達した物が、平安時代中期に編纂された、古代の法典である律令の補助法令の格式の一つ、「延喜式」の神祇項目に出てくる神饌と思われ、春日大社の神饌や、談山神社の百味御食等にその形式を残していると考えられています。
平安時代中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列は動かし難いものとなり、その接待の形式として「大饗」が定められます。
大饗には少なくとも「二宮大饗」と「大臣大饗」の2形式が存在していました。
「二宮大饗」は、毎年正月2日に親王、公卿以下近臣等が、中宮(皇后)及び東宮(皇太子)に拝謁して饗宴を受ける儀式です。
「大臣饗宴」には大きく分けて、任大臣大饗と正月大饗があり、いずれも大臣の私邸で開催し、任大臣大饗は、大臣に任命された際に就任儀式の一環として行われ、正月大饗は、毎年正月の1日を用いて行われました。
大臣饗宴は大きく分けて、主催大臣に対する「拝礼」、正式の宴会である「宴座」、今日の二次会に相当する「穏座」に分けられます。
参加者の内、最も上位にある者を「尊者」と呼び拝礼の中でも一番の賓客として扱われました。
1136年(保延2年)12月9日、藤原頼長が内大臣に任ぜられた時の大臣大饗の様子を、頼長は日記「台記」にその様子を書いています。
これによると、台盤という机と、兀子という椅子に座って食事をする、中国の影響をうけた様式でした。
調理や配膳をする部屋を台盤所といったのが「台所」の語源です。
公卿達が各々決められた座に座ってから机が置かれ、その机は、客の身分によって朱塗りと黒塗りがあり、台盤は、長さ八尺(約2.4m)幅三尺三寸(約1m)高さ一尺五寸五分(約47cm)という2人用の巨大なもので、その半分の切台盤というものもありました。
1157年~1179年(保元2年~治承3年)頃の成立と推定され、平安時代末期の宮廷、公家における年間の儀式、祭事、法会、遊戯等を中心に、民間の風俗を描いた絵巻「年中行事絵巻」に、その様子が描かれています。
机が置かれた後、酒と肴が運ばれ、頼長は「一世源氏座」という亭主の座に着き、盃を取ります。
この時、亭主の机は、藤原氏の長者のシンボルである朱器台盤でした。
盃は、亭主から飲み始め、次に大宮大夫が飲み、続いて公卿達一同の中を盃が巡って納められます。
これが第一献(初献)です。
次の二献は、亭主は飲まず、それ以降は、同じく下座の公家の席まで盃が巡ります。
三献は頼長より飲み始め、同じく流盃します。
こうして宴が始まります。
この部分が、後の時代に「式三献」という酒礼になります。
この盃を3回巡らせるという儀式も中国の影響で、唐代の儀式書「大唐開元礼」の中にも宴半ばに「觴行三周」とあり、觴が三周する儀礼が宴会の中で行われたようです。
台盤には、あらかじめ沢山の料理が並べられており、盃が巡られた後、飯と汁が据えられます。
その料理は、平安時代後期の摂関家寝殿の室礼(しつらえ)をその実務者が記した「類聚雑要抄」に図解されています。
これは、1116年(永久4年)正月23日、内大臣藤原忠道の大饗の食卓例です。
献立の内容は参列者の身分によって異なっており、皇族の正客は28種類、三位以上の陪席公卿は20種、少納言クラスでは12種、接待する主人が最も少なく8種となっていました。
正客の食卓を見てみると、まず、一番手前に飯と箸、匙、四種器と呼ばれる調味料入れが置かれています。
飯は塔のように高く盛られたご飯で、高盛り飯という当時の一般的な飯の盛り方です。
四種器の調味料の中で醬とあるのは、おそらく豆で造った醬で、今の味噌の原型と考えられています。
どの器に盛られたものも、料理として味付けされたものというより、食品そのもので、これを調味料に付けて食べていたと考えられます。
料理は、窪坏、生物、干物、菓子に分けられます。
「窪坏」は、深い器に魚醤や肉醤のような、塩を加えて発酵させた塩辛が盛られています。
海月、老海鼠は、それぞれの塩辛、モムキコミは、鳥臓(もむき)を漬けこんだ肉醤で、蝙蝠は、平安時代末期から鎌倉時代期末に掛けての食饌の旧儀故実を伝えた書物「厨事類記」には鯛醤と書いてある事から、鯛の塩辛だと考えられます。
台盤の左右には生物があり、生のキジや魚介類が盛られています。
当時の京都では新鮮な魚介類を入手するのは困難なので、生物といっても塩漬けだったと考えられます。
石華はところてんに当てられる文字ですが、甲殻類の一種であるカメノテと考える説もあります。
鯉は鱠とあり、鱠とは生魚を酢で和えたものです。
他の雉や魚は盛立とあり、角に切って積み上げるように盛ったのであろうと考えられます。
干物は、水で戻して煮るか焼くかした料理であると考えられます。
奥に並べられた菓子は、右が果物系統の木菓子で、左には唐菓子とあります。
唐菓子とは、中国的で、油で揚げたり、小麦粉を使った菓子です。
今でも神社では、小麦粉が米粉に変わっていますが、菓子の形や油で揚げるのは同じで、神饌の中の一つとしてこれらの菓子を作ります。
この唐菓子の小麦粉を練って紐状にしたりするところから、後世の麺類の起源という考え方もあります。
また、揚げ菓子は、今でも作られる団喜餅という揚げ饅頭の源流と思えるような菓子が京都にあります。
これら台盤に据えられた料理以外にも、汁や羹といった料理が運ばれ、四献から六献まで酒が供されます。
こうして「宴座」が終わり、大饗の宴会は「穏座」へ展開していきます。
六献が済み、身分の低い史生、召使といった人々に下賜品が与えられた後、主客の敷物(円座)を別の場所に敷き直し、「穏座」が始まります。
宴の場が変わり、椅子から床に座り替え、雰囲気も砕けてきて、まさに現在の二次会の様相です。
主人の円座を敷き終わると1人ずつ立って座を替え、改めて各自の前に衝重と呼ばれるお膳が運ばれます。
1152年(仁平2年)の頼長の大饗における穏座の内容は、「台記」によると、木菓子(梨、棗)、干物(干鳥、蒸鮑)、生物(雉、蒸蠣)、窪物(海月、保夜)、薯芋粥の9種で、最後に出る零余子焼きを加えた芋粥は、デザートのように甘いものでした。
隠座では、料理よりも大事なのは芸能で、やがて一献の酒が流巡すると、諸太夫が管弦具を持参し、次に御遊、拍子(新大納言実納)、篳篥(大納言宮雅定)、笙(右衛門督宗輔)、横笛(新中納言公教)、琵琶(宰相中将重通)、と公卿達は管弦の具を持ち出して樂を奏しました。
公家衆の楽器の分担が記され、平調調子、伊勢海、万歳楽、五聖楽が数回奏されました。
このようにして宴は盛り上がり、宮廷での身分に関わらず自由に振舞い、無礼講な二次会でした。
中国の影響を受けた大饗の様式
大饗は当時の中国の影響を大いにい受けて、その様式を形成しています。
その様式は、後世に継承されるものもあれば、後世に継承されずに、大饗特有の様式として姿を消すものもあります。
例えば、台盤という机と、兀子という椅子に座って食事をする、中国の影響による様式は、後世にまでは引き継がれませんでした。
中国の影響を受けた大饗の様式の中で、後の日本料理とは異なる点は、料理の盛り方や食器に見られます。
料理の盛り方
大饗の中で飯と汁が据えられ、いよいよ食事となる時、現在では大変な不作法ですが、お客はまず、箸を手にして飯に立て、続いて匙を立てました。
飯の盛り方も、円く盛ったり、棒状に盛ったり、飯椀の直径より盛り上げた頂上部の方が広がっているような鉢開き型に盛ったりしました。
飯ばかりでなく、菜も場合によっては高く盛り、菓子も盛りました。
では、何故高く盛ったのでしょうか。
現在でも、お寺のお供え物等、打ち菓子や果物等を円錐型にうず高く盛り上げて祭壇に飾ります。
つまり、神仏に供えるような聖なる食べ物のデコレーションとして高く盛り付けるのです。
めでたい食べ物は、神仏に供える食べ物と、どこか通じる所があるので、めでたい食べ物も高く盛り付けました。
正月の蓬莱飾りのように食べ物を高く盛ったものを喰い積みと言い、これを食べると幸せがもたらされると信じられていました。
つまり、古代の日本人が食べ物を高く盛っていた名残りが、神饌や仏供、喰い積みの習慣として後々まで伝わっているのです。
スプーン
大饗では、台盤の上に馬頭盤という馬の顔のように中ほどがくびれた皿があり、この上に箸と匙が乗せれれてテーブルセッティングがされています。
スプーンの事を大和言葉では「かい」と言い、かいは貝と同じで、最初のスプーンは貝に棒を差し込んだもので、奈良時代のスプーンはいかにも貝のような形でした。
先史時代から長い間文明の中心地であった中国の北部では、小麦が導入されるまでは、主食は粟や黍の飯であり、米は粘り気のないインディカ種なのでスプーンを用いました。
後に、箸で摘まみ上げる事ができる粘り気の多いジャポニカ種の米を食べる長江流域の人々が明王朝を建国した為、箸を用いて米を食べる事が中国全土に普及し、箸の利用が一般的になると、インディカ種の米を食べる時は、茶碗の縁に口を付けて箸で掻き込むようになりました。
現在の中国では、炒飯や汁物を食べる時に散蓮華を用いるくらいで、箸だけで食事する事が多いようです。
箸とスプーンをセットで使用する習慣を現在でも残すのが朝鮮半島で、飯、スープ、水キムチのような汁気の多い漬物等はスプーンで食べ、箸は副食物を摘まむ為に用いられます。
朝鮮半島の食事作法は、ヨーロッパと同じように、全ての食器は膳に置いたまま使用し、食器を手で持ち上げる行為は不作法とみなしますが、日本では逆に、飯椀や汁椀を手に持たずに食べるのを不作法とみなします。
また、日本人は熱い汁、スープを飲む時に、音を立ててすすりますが、それはスプーンを用いずに熱い汁を飲む方法として、すする事で空気と汁を適当に混ぜ合わせて温度を下げるという意図があり、空気を混ぜるから音が立ちます。
しかし、スプーンを用いる風習がある朝鮮半島やヨーロッパでは、音を立ててすする事を不作法とみなします。
大饗では、当時の中国の影響を受け、箸と柄の長い金属製の匙を用いますが、そのスプーンを用いて食事する風習は庶民にまで普及しませんでした。
10世紀に中国との公式な外交関係がなくなると、宮廷の貴族達もスプーンを用いる事をやめるようになり、全ての日本人が箸だけで食べるようになります。
宴会の構造
中国の影響を大いに受けた大饗の構造ですが、宴会のしての構造としては、日本らしい特徴があります。
宴会といっても、神を迎えもてなす儀礼の中の宴会、権力者が権力を誇示して臣下の服属を象徴する宴会、一族郎党が集まって結束を固める宴会、国家あるいは私的な年中行事の宴会、個人的な通過儀礼の宴会、友人同士が集う宴会等、その種類は無数にありますが、共通する必須の条件は飲食です。
飲食を中心に見た時、宴会は、酒礼、饗膳、酒宴の3つの部分により成り立っています。
まず、酒礼ですが、現代の宴会では、乾杯を行いますが、これは西洋の影響で、古代の日本ではこれに代わり盃を巡らせる巡盃がありました。
巡盃は儀礼の第一でありますから厳しい約束事がありました。
大饗の巡盃も約束事があったとみられ、後の武家社会では、巡盃は三献に定まり「式三献」と呼ばれました。
主君と家臣の間を盃が巡り、一献事に肴が改められ、主従の間では太刀、馬等の献上と下賜という贈答が行われました。
つまり、巡盃という儀礼は主従の固めの盃であって、主従の関係を強化する為の共同飲食の儀式でした。
従って、式三献がなければ饗膳に移る事はできず、俗に「駆けつけ三杯」という言葉がありますが、三杯(三献)を済まさなければ宴会に参加する資格がないという意味合いだと考えられます。
式三献は、現在では結婚式の「三三九度」の盃として残っており、三三九度が夫婦の固めの盃であるところに、巡盃が本来持っている性格が残っています。
酒礼の後、饗膳に入り、その内容はその時代によって大きく変化しますが、飯と汁を中心とした食事で、菓子と、後世になるとそれに加えて茶が入ります。
饗膳では基本的に酒は控えられ、後には中酒として食事中にも酒を出すようになりますが、最初の酒礼と後の酒宴が酒を中心とするのに対し、饗膳はあくまで食事が中心です。
饗膳が終わると酒宴に入りますが、現在の宴会では饗膳と酒宴が複合してしまっている例も少なくありません。
酒宴の特徴は、客前に運ばれる吸物と肴、それと酒宴の最中に演じられる種々の芸能です。
吸物と肴は饗膳の飯と共に供される汁、菜とは本来別物ですが、平安時代にはまだ明確な区別ができ上っていません。
芸能もまた重要な酒の肴で、一献事に芸能が演じられ、やがて飲めや歌えやの無礼講に転じていくのが酒宴の常道でした。
大饗は、複数の人が一緒に囲む台盤という大型の食卓や椅子の使用といった点からみても、平安時代中期の辞書「和名類聚抄」に「唐式である」と書かれている事から見ても、中国からの影響下で成立した饗膳の様式である事は明確です。
奈良時代の饗膳を知る史料はほとんどありませんが、おそらく律令制下の宮中における食の様式にはすでに大饗の先駆け的な様式があったと考えられます。
しかし、平安時代以降、一方に唐風の様式を残しながら和風の様式が加味され、やがてそれは室町時代に確立される本膳料理として展開していきます。
古代から中世の庶民の食事
「病草紙」という平安時代後期に成立した絵巻があります。
当時の病気の様子を描いたもので、その中に歯槽膿漏を病む男の絵があります。
この絵には、男の前に置かれた食べかけの食事も描かれており、これほどはっきりと庶民の食事が描かれた絵は他にありません。
まず中央にはご飯を高く盛った、いわゆる高盛り飯が置かれています。
この頃は、おかわりという習慣がなく、食べる量を一度に盛る習慣がありました。
男の方から見て、その右脇には汁と思われる椀があり、左に飯椀、右に汁椀という置き方は現在と同じです。
汁の実までは絵から判断できませんが、表面に汁の実が顔を出しています。飯と汁の向こうに3種類の菜が見え、いずれも浅い皿に積まれており、内容は判然しませんが、1つは干魚のように見えます。
飯の陰には半分隠れている器が見え、これはおそらく調味料入れだと考えられ、大饗では4種類の調味料が出ていましたが、ここには1皿しか見えませんので、塩か酢が入っていると思われます。
皿も飯椀も汁椀も黒く描かれていて、朱漆の文様らしきものも見える事から漆器だと考えられます。
こうして見ると、一汁三菜の食事である事が分かり、これが1000年以上続く日本料理の基本形のようです。
ご飯の上には、細く長い立派な2本の箸が突き立てられています。
この飯に箸を突き立てる事は、大饗でも食事をする前にしていましたので、当時は必ずしも不作法とは言えないものでした。
箸の成り立ち
箸は、中国に起源し、紀元前500年頃より当時の文明の中心地であった中国の北部から普及していきました。
日本にも古くからあり、例えば日本の神話の中に、倭迹迹日百襲姫命が、姫の元へ通ってくる大物主神の本体が蛇である事を知って、陰を箸で突いて死ぬ話があります。
しかし、最も実証性の高い考古資料としては、古い遺跡から箸が出土した例がなく、7世紀の飛鳥板蓋宮遺跡から出土した箸が比較的古い例とされています。
なので、先の神話も「日本書紀」が編纂された8世紀の知識を持って書き直されたものという解釈もあります。
また、古くは二本箸ではなくピンセット型の箸だったという説もあります。
確かに、祭事等では今でもピンセット型の箸が登場するので、祭器としてはピンセット型の箸があるのは間違いないですが、ピンセット型の箸は決して使いやすいものではなく、また、作るのが手間なのでピンセット型の箸はあくまで祭事用に使われただけで、中国から二本箸が導入されるまでは、手で食べる手食と木製の匙を使っていたのではないかと考えられます。
木を削って先を細くした二本箸が大量に出土するのは奈良の平城京跡で、食事を用意した官庁の大膳職の建物付近とか、ゴミ捨て場と思われる溝や井戸の穴等から数十本の箸が出土しています。
長い物は26.5㎝、短い物は13㎝と色々で、材料は檜です。
しかし、出土する場所が限られている事から考えると、箸の使用が官庁のような公的な施設に限られ、まだ一般庶民に広く普及していなかったと考えられます。
二本箸の事を唐箸と言ったように、やはり中国文化の導入としてまず官庁から普及し始めた事が、こうした箸の遺品の出土状況からも伺えます。
784年に平城京から遷都された長岡京の発掘では、一般人の住居区画からも箸が発見されるので、この頃から庶民に普及していった事が分かります。
箸が神事に供えられた事からも、日本人は箸に清らかな道具として特別の地位を与えていた事が分かります。
現代の日本では、家族がそれぞれ自分の箸を持っている場合が多く、これは日本の食文化の大きな特徴です。
日本人は箸や飯茶碗や湯呑を、それぞれ銘々の物を持っていて、家族と言えども共用しませんが、カレーライスのように洋食の場合のスプーンやカレー皿は自分のお皿と主張する事はあまりなく、和食という伝統的な文化の中だけに、この食器が人格に属している属人主義的な思想が現れています。
箸がなぜそれぞれの人格に属しているかと言えば、直接口に入れる道具だからだと考えられます。
唇に直接触れるものについて日本人はとても敏感で、そうした道具は魂が乗り移るとも考えましたので、自分の使った箸は他人に使わせず、古くから客の為に箸は新しい箸を用意する習いがあり、例えば、茶の湯で、茶会の前には亭主が箸を削って客を迎える心得があります。
しかし、茶の湯ではひとつの茶碗で回し飲みをしますし、伝統的な宴会の際には、上位の者が使用する酒杯を借りて下位の者が飲み、それに酒を注いで返杯する風習があります。
これは、同じ器で飲んだ者同士の間で人格の共用が行われ、それにより連帯感が生じる事を意味する行為としてあえて行われています。
また、「古事記」に、須佐之男命が出雲の国の肥の河で、川上から箸が流れてくるのを見て、上流に人が住んでいる事を知る場面があり、古代では使った箸は川に流し捨て、箸を穢れと共に川に流す習慣があったと考えられています。
こうして箸は、奈良時代から平安時代に掛けて、庶民の中まで浸透していきました。
膳の種類
「病草紙」に描かれている庶民の食事の絵を見ると、一枚の板のような足のない膳、折敷を使っている事が分かります。
この折敷が最も原始的な膳であると同時に、現在に至るまで最も素朴で質素な膳として継承されています。
やがて足のある「高坏」と呼ばれる膳の原型のようなものが登場しますが、これは日常の膳というより神様に神饌を供える膳で、高い一本足が土器や木で作られ、うえに皿型の膳が付いていました。
高坏は、木の足の上に丸や角の膳を固定し、漆で塗ったものや、足だけは焼物で、その上に折敷を置いた折敷高坏等と展開していき、鎌倉時代辺りまで、高坏が膳として位の高いものでした。
平安時代には色々な膳が登場します。
「懸盤」と呼ばれる膳は、四角の膳に4本の足が外に膨らんで付いていて、足が畳に付く部分にはそれぞれの足を繋ぐ縁が付いていて、強度が補強されているもので、現在では、雛飾りにミニチュアの懸盤が見られます。
「衝重」と呼ばれる膳は、四角の膳に四角の胴が付いて、胴には四方に窓が付いていて、全体が漆で装飾されています。
衝重の上の盤の縁を高くして、下の胴の窓を小さく三方にだけ空けると、いわゆる「三方」になります。
ただし、三方は衝重と違い白木で作ります。
あまりありませんが、窓が二方に空いていれば二方、一方だけなら一方、窓がないのが「供饗」で、最も正式な中世の饗膳であれば三方か供饗が用いられました。
白木の膳は未使用の新品というところに意味があり、それに対して塗ってある膳は一見したところは上等ですが、何度も使うわけで清らかさに欠けると考えられ、神様や尊いお客様には、何の装飾もない白木のものが選ばれました。
白木の膳には三方の他に、板を2枚打ち付けた形の「足打」等もあり、大名の本膳料理で使われました。
18世紀には、庶民の膳として「箱膳」が登場します。
これは、箱の中に必要な飯茶碗や汁椀等を入れられて、箱の蓋をひっくり返すと、高さの低い衝重のような形になるもので、いわばポータブル型の膳でした。
これは大きな店の使用人のような忙しい人々には便利で、膳棚に置かれている自分の箱膳を出して広げ、飯、汁、菜を盛るとすぐに食べられ、食べ終わると飯茶碗、汁椀等に湯を注ぎ、漬物等で食器を綺麗にして湯も飲み、後は自分の布巾で水気を拭うと箱の中に納め、また膳棚に戻して食事を終えられました。
以上のように、日本の膳は、高坏や折敷から始まり、明治時代に「ちゃぶ台」が登場するまで、1人ずつの銘々膳でした。
1人用の膳が日本の食卓の伝統であり、その歴史の中に、平安時代の台盤等、大型で複数の人が食卓を共にするテーブルが、外来文化として現れてきたのです。
平安時代の市場、東西市
「病草紙」に描かれている歯槽膿漏を病む男は、おそらく下級官人かと思われ、貴族を始めとして官庁に勤める人々は、平安京に8000人から9000人いたと言われ、そこから平安京の人口は10世紀頃には7万人から8万人と推定されています。
この人々の食材を賄うのは、七条に設けられた東西市です。
本来、平安京の中心となる朱雀大路の位置は現在の千本通りなので、現在の京都の中心線を烏丸通りとすると、大分西へ寄っており、すなわち、最初の平安京のプランより都全体が東へ移動している事が分かります。
その為、西市は早く衰え、東市が栄え、それが現在の堀川七条の辺りで、かつては市比売神社が祀られていました。
10世紀後期には、東西市は、国家が管理する市場ですので売る品目も定められていて、
「東西両市共通」:心太、索餅、海藻、菓子、干魚、生魚、菲、米、塩
「東市」:麦、醬、蒜、海藻
「西市」:糖、未醬
とあります。
主食の米、麦、調味料の塩、味噌、副食の干魚、生魚(塩蔵品も含む)、海藻は心太だけが特記され、野菜は菲(カブの一種)、蒜(ノビル、ニンニクの一種)の2種という点はその理由は明らかではありませんが、野菜と言えば、官人の慶滋保胤が「池亭記」の中で、「邸の内八分の二を菜園とし、七分の一を芹田としている」と書いているように、それぞれぞ邸宅の一部に野菜を作って日常の食事の足しにしていたと考えられます。
官人達は五条より北の方に住んでおり、公の市である七条市まで行くのは不便なので、やがて、三条や四条の辺りに私営の市場が栄えるようになりました。
そうした町屋の中の市場の様子かと思われるのが「直幹申文絵詞」という絵巻に、臼を搗き穀物を売る店、塩漬けの魚、赤い果物の様な物、桶に入った餅の様な物、わらじ、柴等何でも売る店、同様にわらじ、紙、布、食べ物と思われる物を詰めた曲物を前に置いた店は、男が店の女と何やら交渉しており、鳥居の傍には琵琶を弾く芸人と見物人、頭上に魚の入った箱を載せた市女(販女)が描かれています。
市場にはこのように店売りと行商の販女、販夫が行きかって食材や食べ物を売っていました。
平安時代末期に成立したとみられる説話集「今昔物語集」に、販女が酒に悪酔いし、売り物の鮎鮨の上にもどしてしまったのだが、鮨の上の汚物を拭うとそのまま鮨を売り歩いた話や、蛇を四寸程の大きさに切って魚と称して売る販女の話が載せられています。
食事の作法、食事の回数
藤原忠実の記した「中外抄」を見ると、手で食べる物と箸で食べる物の区別や、温かい汁と冷たい汁の食べ方等が記されています。
清少納言の「枕草子」に大工達の食事を描写した所があり、彼らは食べ物が運ばれてくるのを今や遅しと待ち受けていて、汁物が来るとみな飲んでしまい、空になった土器を置き、次におかずが来るとこれもみな食べてしまって、もうご飯はいらないのかと思っていると、ご飯も来るとまたすぐなくなってしまい、いとあやしけれとあります。
「枕草子」の大工の食事がどの時間のものであったか分かりませんが、硯水と呼ばれる間食だったのかもしれないと考えられます。
というのは、奈良時代以来、日本人は基本的に朝夕の二食でしたが、労働量の多い人々は二食では体が持たないので、その間に硯水(建水、勤随)と呼ばれる昼食を取る事がありました。
朝夕の二食制は鎌倉時代辺りまで守られていましたが、まず公家社会ではだんだん朝昼夜の三食制が浸透し、寺院でも、本来は一日一食だったのが、非時とか点心という名目で二食制となり、室町時代になると三食取る例も出てきました。
1221年、順徳天皇は、有職故実に解説書である「禁秘抄」の中で、かつての天皇の食事は朝夕の二食制であったものが、当時に三食制に変化していた事を述べています。
しかし、庶民と武士は二食制が守られ、戦国時代に生きた「おあん」という名の女性の物語「おあむ物語」には、若い頃は昼食を食べるなどという事は夢にも思わなかったとあります。
日本人がいつ三食制に移ったかと言うと、このように階層や職業によって、また史料によってかなり違い、一概には言えませんが、日本全体に三食制が広がったという事になると、17世紀の江戸時代と考えられます。
この時代は、植物油を使用する灯火が民衆の家屋に普及する時期に当たり、蝋燭の製造がなされるようになり、特に都市部では夜の生活が長くなり、2回の食事では足らずに、三食制へ移行したとも考えられます。
また、この時代に人々の労働時間が長くなった為、3回食事するようになったという考えもあります。
この時代は、自給自足経済が解体し、貨幣を使用した商品経済が全国に普及し始めた時代で、商品生産にマニファクチャ―制が導入され、商業活動も飛躍的に発展し、農業においては新たな農地が開発され、中世に比べ生産力が増大しました。
機械による生産がなされる産業革命以前の生産は人力を基礎としており、したがって、この時代における日本の生産力の増大は、人々が長時間働くようになった、あるいは、働かされるようになった事を意味し、長時間の労働に伴って、1日の最後の食事の時間が遅くなり、日没後に食事をするのが珍しくなくなり、正午前後にも食事するようになり、1日に3度の食事が普通になったと考えられます。
年中行事
日本の民俗学では、日本人の生活の時間を「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」のふたつに区別します。
ケとは、労働に従事する普通の日々の事で、ハレとは、年中行事や通過儀礼等が行われる地域社会や個人にとって特別な意味をもつ日です。
ハレの日には、労働をせず、儀礼に参加し、労働着とは異なる晴れ着を着用し、作るのに手間が掛かり日常の食事では供されない食べ物や、高価で普段では食べられない飲食物が並びます。
餅は、ハレの日の代表的な食べ物で、神聖な食べ物という性格をもち、作るのに時間と重労働を伴うのでハレの日だけに作りました。
かつては、麺類や豆腐をハレの日の食べ物とする農村も多く、水車製粉や畜力製粉が発達しなかった日本では、一般の農家では手回しの石臼で製粉を行い、麺類を作る為には石臼で麦や蕎麦を粉にし、豆腐を作る為には吸水させた大豆をすり潰したりと、時間と重労働を伴う麺類や豆腐をハレの日の食べ物としました
毎日、大麦や粟等の増量材を混ぜて炊いた飯や、野菜だけのおかずか、せいぜい干物の魚を食べる貧しい農民でも、ハレの日には混じりものなしの白米の飯や鮮魚を食べました。
ハレの食事は、食べきれない程の量が供されていなくてはならないし、多くの場合、酒がつきもので、祭の日に備えて自家醸造され、ハレの日のは酩酊するまで飲み、酔っ払って我を忘れ、非日常的な心理状態になる事が推奨され、酔っていなくても酔っぱらったふりをするのが祭の日の作法でした。
階層、職業、地域の差はありますが、伝統的な日本人の生活の中で、このようなハレの日が一年に20日~30日は定められ、単調なケの日々に変化をつけていました。
文明の広がりを、同じカレンダーを共有する地域として捉えると、例えば、キリスト教のヨーロッパ文明ではグレゴリオ暦が、イスラム文明ではイスラム歴が用いられ、同じ暦法を共有する事によって同じ文明圏では同じ日に同じ宗教行事を行ってきました。
同様に、日本、中国、朝鮮半島、北ベトナムでは、長い間、基本的には同一原理から構成された暦を使用するひとつの文明圏でした。
553年、宮廷は百済に対して、暦法学者を日本に派遣する事を要請し、翌年来日した学者が伝えたのは、中国で制定された暦法で、17世紀後期に、徳川将軍の政府が天文学者に従来よりも精密な暦を作成させて公布するまでは、日本では中国で作られた太陰太陽暦が使用されてきました。
中国の暦法を採用するという事は、中国起源の年中行事及び、それらの行事に慣例の儀礼食の伝播をも意味し、その為、朝鮮半島と日本の特定の行事において食べるべきとされる食べ物には、中国の風習に起源するものが多く、中国起源の行事に関する食習慣の多くは、中国との交流が盛んであった10世紀初期までに日本の宮廷に採用され、民家に広まったと考えられ、仏教に関する民間の行事も、最初は宮廷や貴族や寺院で行われたものが、仏教が民衆に浸透するにつれて普及しました。
一方、それ以前からあった季節的行事の内、現在まで伝わるものは、農耕儀礼に関する祭が多く、神道の神社が関与する事が多いです。
代表的な年中行事として、1月1日の元日、1月7日の七草の節句、3月3日の桃の節句、春分、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕、お盆、9月10月の月見等、その行事に関係する料理を伴い、この他にも、地域社会で行う年中行事として、春の田植えに関する祭、夏の虫害と台風を予防する祭、秋の収穫祭といった稲作に関する祭等は、それぞれの地方によって特色ある料理を伴います。
また、個人の一生に関りをもつハレの日である主要な通過儀礼には、誕生、成人式、結婚、還暦、葬式等も、その行事に関係する料理を伴います。
祝い事としての通過儀礼や、地域社会の祭の料理は地方差が著しいですが、全国に共通する祝い事に伴う料理もいくつかあり、餅と並んで赤飯は祝祭日の主食で、その赤い色は、日本人のカラーシンボリズムからすると、邪霊を祓い、生命力を増強する効果をもつとされ、この他、鯛や海老が祝い事に欠かせない理由のひとつとして、料理すると赤色になる事が挙げられます。
祝祭日の食事には、普段は食べない上等の料理が選択されるので、仏事以外の行事の際には、日本人にとってご馳走の最上級とみなされてきた刺身が供えられる事も多いです。
料理方法
9世紀頃には既に、現代に継承される伝統的日本料理の基本的調理法、焼き物、煮物、蒸し物、汁物や、和え物、漬物、鱠、煮凝り等が一般的な料理技術として確立していた事が文献記録によって分かります。
しかし、油脂を用いた料理法はほとんど行われませんでした。
肉食があまりなされなかった為、動物の脂肪やバターを利用する料理も行われませんでしたし、食用油を搾る事ができる作物には胡麻がありましたが、胡麻油は極めて高価でしたので、胡麻は薬味としていり胡麻やすり胡麻として使用するのが一般的でした。
胡麻油を用いた稀な料理に唐菓子がありますが、これは、小麦粉、米粉、大豆や小豆の粉を主原料として生地を作り、胡麻油で揚げ、それにツタの一種であるアマチャヅルの樹液を煮詰めたシロップである甘葛で甘味をつけたものです。
ただし、唐菓子には、揚げ菓子の他にも様々な種類があり、現在の素麺にあたる索餅も唐菓子の類とされました。
中国には植物油や脂肪を用いて炒める料理法もありましたが、日本の古代にはこの料理法は伝わりませんでした。
伝統的な日本料理の特徴のひとつは、油脂の利用を欠落させた料理法であるともいえます。
現在では代表的な日本料理である天婦羅は、ポルトガル人がもたらした料理法である可能性が高く、19世紀になるまで、江戸の市街では串に刺して揚げたテンプラが道端の露店で売られ、庶民の食べ物として好まれ、幕末になると、店舗を構えたテンプラ店が出現してきました。
麺の成り立ち
麺類は中国に起源する食品であり、イタリアのパスタも中国からシルクロードを経由して伝播したものと考えられています。
南西アジア原産の作物である小麦が、中国の華北平野で栽培されるようになるのは、紀元前403年~紀元前221年の戦国時代の事で、西方では小麦粉をパンやナンに加工され、中国では小麦粉を饅頭や包子に加工されました。
後には冷たい麺料理も考案されますが、熱いスープに入れて食べるのが麺料理の主流でした。
最初は小麦粉生地を団子状に成形して汁で煮る水団のような食べ方でしたが、紐状に伸ばして表面積を大きくし、汁がよく絡むようにしたのが麺の起源ではないかと考えられ、麺類が中国でよく食べられるようになるのは唐代になってからの事でした。
奈良時代から中世に掛けての文章に、中国起源の「索餅」あるいは「麦縄」と呼ばれた食品が記録されています。
索餅=麦縄は麺ではなく、菓子の一種であったとする説もありますが、10世紀初期に成立した「延喜式」に記載されている索餅の原料と道具を用いて再現してみたところ、索餅は現在の手延べ素麺の前身にあたる食品である事が実証されています。
15世紀中頃から、索餅を「ソウメン」と呼ぶようになりますが、これは中国語の「索麺(スゥオミェン)」に由来します。
索餅や素麺は、麺生地を長い紐状にして、細い2本の竹管の間に巻きつけて伸ばして作り、その製造は技術に熟練を要し、専門の職人か農閑期の副業として専門的に生産する農家によって作られました。
貴族や大きな寺社では、所有する地方の荘園で素麺を作らせて貢納させ、また、商品としても売られ、それを都市民は買って食べられましたが、一般の農家では、小麦を栽培していても製造が難しい為に素麺を食べる事ができませんでした。
饂飩や蕎麦といった切り麺は、麺生地を麺棒で平らに伸ばし、何重にも折りたたんで、包丁で切って作り、その技術は中国では唐代に成立しますが、日本の文献に饂飩と思われる食品げ記載されるのは14世紀中期の事で、それが普及するのは15世紀になってからでした。
切り麺の普及には木工技術が関係をすると考えられ、麺棒で小麦粉を伸ばす為の台は、完全な平面でなければならず、日本では15世紀になって台鉋と縦挽きの大鋸が普及し、大きな平面の板が容易く作れるようになった事が切り麺が普及する背景にあります。
饂飩作りの技術を蕎麦粉に応用して、16世紀から蕎麦切りが作られるようになり、それまでは、蕎麦は粒のまま粥や蕎麦飯に炊くか、蕎麦粉で蕎麦がきや蕎麦餅を作って食べていました。
切り麺作りの技術が普及すると、饂飩と蕎麦が日本の二大麺類となり、畑作地帯が比較的多い東日本では蕎麦切りが好まれ、一方、気候が温暖で、水田で稲を収穫した後の裏作として小麦を栽培する事が可能である西日本では饂飩が好まれました。
肉食禁止の歴史
食のタブーというものは、宗教的なものと民俗的なものとがあります。
肉食の禁止を宗教的なものか民俗的なものかと考えるか、人により意見は異なりますが、両方の意向が顧みたものとみる事もできます。
釈迦が、仏教徒が守るべき戒律の第一のものとして挙げたのは、生物を殺さないという殺生戒でした。
従って、本来仏教徒は完全な菜食主義者であるべきで、肉も魚も食べてはならないはずですが、現実には、一切の動物性タンパク質を食べないのは、極一部の仏教徒に限られ、東南アジアの上座部仏教では、民衆は魚も肉も食べるし、僧侶や尼等の聖職者も「自分が殺す所を見ていない肉、自分の為に殺したとは聞いていない肉、自分の為に殺したものではない事が明らかな肉」、この3種類の肉は食べても構わない事になっています。
中国、朝鮮半島、日本に伝わった大乗仏教は、もっと厳しく、原則的には魚や肉を食べる事を禁じていましたが、それを守ったのは聖職者達だけでした。
日本で最初の肉食禁止令
日本で最初の肉食禁止令は、675年、天武天皇が制定しました。
動物や魚を乱獲するおそれがあるとして、罠を用いた狩猟と漁労を全面的に禁止し、4月1日から9月30日の間は、牛、馬、犬、猿、鶏を食べる事を禁止すると共に、檻、檻穽、機械仕掛けの機槍、漁労用の簗の使用を禁じ、これらの禁止事項を破る者は処罰するという法令でした。
従来、この法令は、殺生を禁じる仏教思想に基づいて発布されたと解釈されてきましたが、当時の日本人にとって最も重要な食肉資源であった鹿と猪の食用を禁じておらず、5種類の動物に限って、特定の期間だけ食用を禁じている事から、この法令には仏教以外の要素が強く反映されているとの指摘があります。
犬を食用にするのは、かつては東南アジア、オセアニア、中国、朝鮮半島と分布しており、これらの地域では、牧畜や狩猟が発達しなかった為、西洋のように牧羊犬や猟犬として人間の伴侶とされ、ほとんどフェティシスムの一種とさえ思える程の特殊な関係を人間と犬が結ぶ事はなく、日本でも天武天皇の肉食禁止令から分かるように、犬は食用家畜とされてきましたが、主な用途は狩猟と番犬であり、食用目的の飼育はされていませんでした。
猿は縄文時代から食用されていましたが、狩猟対象として重要なものではなく、人間に似ている事から、猿は日本の民俗慣行の中で特殊な位置を占める動物で、神の使者とみなす地方もあり、後世の猟師達は猿を殺す事を嫌い、その肉を食べる時も、単なる食料としてではなく、病気を治すと信じ、薬用の効果を期待して食べられました。
鶏は弥生時代に日本に導入されましたが、神話では神の使者として重要な位置を占め、一般には食用をタブーとする事が多いと推定され、食用の為ではなく、ペット的性格を備えた聖なる鳥、また、目覚まし時計、闘鶏用として長い間鶏を飼い続け、江戸時代以前は鶏肉だけでなく、鶏卵も食べる事を避けられたようです。
牛と馬は弥生時代に日本に導入されましたが、7世紀になっても頭数は少なく、馬は戦闘の際には指揮官クラスだけが乗り、牛は農耕で犂を引かせる事もなく全て人力で行う農民も多く、牛も馬も貴重な役畜でしたが、古代には、その年の水田耕作の最初の日に牛や馬を犠牲にしてその肉を食べる農耕儀礼があり、これは、中国あるいは朝鮮半島からの渡来人達によって行われたようでしたが、この農耕儀礼を行ったら、かえって干ばつやイナゴによる虫害が起き、祟りがあったという伝承も記録されており、これは、外国から伝わった農耕儀礼と、動物供犠を行わない日本の風習との葛藤を示すものであると考えられ、642年には雨乞いの祭りに牛や馬を犠牲にする事を禁じる法令が出され、702年の飢饉の際には、牛を犠牲にする替わりに、土で作った牛を用いて農作を祈願する儀礼を行ったとの記録があります。
このような事を考慮に入れると、675年の肉食禁止令は、食用禁止の対象になっている犬、猿、鶏は日本人にとって特別な関係を持つ生物であり、わざわざ禁止にしなくてもあまり殺す事はなく、牛、馬を食用にする事を禁じたのは、貴重な役畜の減少を防止し、また、水田農耕の期間に当たる旧暦の4月から9月の間禁止である事から、干ばつやイナゴの虫害、飢饉を防ぐのが肉食禁止令の主眼であったと考えられ、それに加えて、罠や簗で動物や魚を乱獲する事を禁じて、無益の殺傷をしないという仏教的イデオロギーが背景にあると考えられます。
仏教の普及と肉食の禁忌
奈良時代になると、仏教の理念に基づく国家の統治体制が確立し、日本各地に官営の寺院である国分寺が建設されるようになり、仏教の慈悲の精神を普及すれば天皇の仁徳を国中に広める事に繋がるという、王権と宗教が合体した政治思想が形成されました。
この時代の天皇達は、しばしば一切の動物を殺す事を禁じる法令を出しており、752年、総国分寺である東大寺の大仏の完成に際して国家的行事である大仏開眼会が行われ、それを記念したと思われる孝謙天皇の詔勅では、この一年間日本国中で全ての生き物を殺す事を禁じ、その為に生計を失う漁民に対しては、生活に困らない量の米を支給すると約束しています。
その後、12世紀に至るまでの間、何回も動物を殺す事を禁じる勅令が出され、この事は人々に肉の味を忘れさせる事が困難であった事を物語り、833年に完成した法令の注釈書「令義解」には、僧侶や尼が肉を食べ、仏教の戒律で禁じられている飲酒をしたり、淫欲、憤怒を引き起こすので、聖職者には食用が禁じられている五辛(五葷)という匂いの強い野菜、大蒜、韮、葱、辣韭、蒜を食べた者には罰として三十日間の重労働(苦役)を科すると記されています。
しかし、病気を治療する目的で僧侶、尼が肉食をする際には日限を定めて食べる事を許すと記されています。
従って、9世紀前期の段階では僧院の中でも密かに肉食がなされていたようです。
10世紀になると、僧侶、貴族、都市民の間では獣肉食を罪悪視する風潮が成立し、その後、仏教が田舎の民衆まで浸透すると、仏教の輪廻の観念と哺乳類の肉食をタブー視する事が結合し、四足獣の肉を食べた者は、死後に四足獣に生まれ変わるという考え方が普及しました。
神道の穢れと肉食の禁忌
927年に編纂された、法令集である「延喜式」によると、動物の肉を食べた貴族や政府高官はその後の3日間は不浄となり、宮廷で行われる神道の行事に参加する資格を失うとされています。
この事は、まだ上流階級でも肉食をする者がいた事を証明すると同時に、神道でも肉食がタブー視されるようになっていた事を示しています。
後の時代になると、神道において肉食の禁止が強化され、1318年に制定された皇室の守護神を祭る伊勢神宮の参拝者の為の規定の注釈書である「文保記」では、猪と鹿を食べた者は、神宮への参拝が100日間禁じられると記されています。
神道では、不浄の状態を「穢れ(ケガレ)」と言い、穢れの最たるものは、死及び出血に関する事柄で、近親者が死亡した場合、死の穢れである「黒不浄」とみなされ、他人に感染させないよう一定期間社会生活から隔離されねばなりません。
出産、月経は出血を伴う穢れである「赤不浄」とされ、その状態にある女性は隔離されます。
いくつかの地方では、20世紀になるまで出産や月経の際には家族の住む建物とは別の所で寝起きし、食事も家族とは別の火で料理された食べ物を摂る風習があり、血の穢れが家族の料理を作る火の神聖さを汚す事を避けました。
出血を穢れとする民俗の上に構築された宗教である神道には、動物犠牲を伴う儀礼はなく、必然的に出血を伴う肉食は神道でも穢れとみなされるようになりました。
一切の生物を殺す事を禁じる仏教では、厳密に言えば魚食も禁じるべきですが、神道では魚の血液について言及する事は無く、魚、貝は神に捧げる上等の供え物の地位を占めています。
仏教ばかりでなく、伝統的宗教である神道でも肉食を穢れとみなすようになった事もあり、多くの日本人が肉食を忌避するようになりました。
日本人の魚食文化
古代末期から中世に掛けて、職業的猟師等を除外すると、一般的に民衆は哺乳類の肉を食べなくなりましたが、鶏を除く野生の鳥類と魚介類は、仏教行事の期間や近親者の命日を除いては食べて差し支えありませんでした。
しかし、民衆にとって、狩りの獲物の鳥類を食べる機会は稀で、乳製品を日常の食物とする風習も欠如していたので、動物性タンパク質の摂取源は、主として魚に限られる事になり、その為、日本人にとってのご馳走は魚となり、魚料理が日本料理の王座を占めるようになりました。
哺乳類の中でも鯨は魚であると信じられ食用にされ、東日本を中心に勃興した武士達では、軍事教練を兼ねてしばしば巻狩りを行い、鹿や猪を捕獲して食べ、病弱者が体力を付ける為に「薬食い」と称して哺乳類の肉を食べる事もあり、また、健康な者が病気治療の為に止むを得ず肉食をするという口実を免罪符として肉を食べる事もありましたが、とは言え、一般の民衆が野獣や野鳥の肉を食べる機会は極めて少なく、日本人全体としては肉無しの食生活が普通でした。
哺乳類を食用にする事が無くなると、動物の屠畜、皮剥ぎ、皮革製品の生産に従事する人々への社会的差別が生じるようになり、このような職業に従事し、牛、馬、鹿等を解体する人々は、それらの肉を食べていましたが、殺生を禁じる仏教理念から好ましくない仕事とされ、神道で言えば穢れた存在とみなされ、哺乳類の肉食を禁止する事が民衆の間に普及した鎌倉時代には、これらの人々を被差別集団として社会的に隔離する事が成立し、その後もカーストとしての差別が強化され、現代にまで続く社会問題となりました。
肉食の欠如に繋がる乳食の欠如
民衆の食卓から肉の姿を消し去る事が可能になった事について、仏教や神道のイデオロギーの浸透だけで説明するのでは不十分で、その背景として、伝統的な日本の農業は食肉用、乳用家畜を生産する体制を欠如している事を指摘する必要があります。
牧畜とは、有蹄類の草食性の家畜を群れとして管理し、その家畜群からの生産物に大幅に依存する生活様式の事であり、家畜の肉や乳が牧畜民の主要な食料源となるだけでなく、家畜の毛から衣服やテントを製作し、中央アジアでは家畜の糞を乾燥させて燃料とします。
雑食性で群れを作らない家畜である豚を飼養しても牧畜とは言わず、役畜として牛や馬を2、3頭飼育しても群れとしての管理をしないので牧畜とは言いません。
牧畜民の主要な食料は肉ではなく乳です。
肉食の為に屠畜を続けていたら、畜群が消滅してしまうので、屠畜の対象を去勢雄と乳を出さなくなった雌に限定し、なるべく家畜を殺さずに繁殖させ、畜群を大きくする事によって人間が利用できる乳の量を増大させます。
乳は栄養面において理想的な食品ですが、生乳はすぐ変質してしまうので、様々な乳製品に加工し、保存食品にする事によって搾乳の困難な季節の食料にします。
現在の世界においては、乳の生産量の多い、牛、水牛が主要な搾乳の対象とされますが、それぞれの地域における家畜群の構成に応じて、羊、山羊、馬、ヤク、駱駝、馴鹿の搾乳も行われ、これらの家畜は、いずれも草食性の有蹄類で群居性を持ちます。
モンゴルから中央アジア、西アジアを経由して北アフリカに繋がる旧世界の乾燥地帯が、牧畜という生活様式の中心であり、そこでは農業を行わず牧畜に生活を依存する遊牧民が分布し、ヨーロッパ、インドでは、牧畜と農業が有機的に結合した生活様式が伝統的なものとして展開し、中国の中心部、朝鮮半島、東南アジアでは、牛、馬は役畜として飼養され、農業一世帯が一頭から数頭保有するだけの非牧畜地域でした。
弥生時代に日本に導入された稲を主作物とする農耕文化複合は、豚と鶏の飼養は伴っていましたが、家鴨と羊を欠如したものでした。
また、鶏の食用はタブーとされていましたし、考古学的遺跡から発見される飼育用の豚は少なく、野生の猪の発見例の方がはるかに多く、豚を飼う農民の数は少なかったものと考えられます。
高密度の人口を持つ農業社会において、民衆の日常の食卓に肉を供給する為には、家畜、家禽を生産する為の社会的体制が整備されている事が必要であり、そのようなシステムが確立していない古代日本の農業社会においては、肉の供給は専ら狩猟の獲物に頼っていました。
その間、日本の人口は増え続け、それに伴う耕地面積の拡大によって農耕適地である平野部から野生動物は姿を消し、その生息地が山間部の森林に限定されるようになった事から、日本人は肉を日常的には食べられない生活に適応するようになり、こうした状況の為、肉食を禁じる宗教的イデオロギーを浸透させる事が可能になったと考えられます。
東アジアでは乳搾りの慣行が一般的ではなく、日常の食生活に乳製品の果たす役割が極めて小さかったのですが、かといって、乳利用が完全に欠如していた訳ではなく、薬用等に稀に乳食がなされる事がありました。
6世紀中期の山東省で記された漢族の為の農業技術と食品加工技術に関する書物である「斉民要術」には、5種類の乳製品の製造品の製造法が記載されています。
漢族の上流階級においては贅沢品あるいは薬品として乳製品を極稀に食べるという事は、明王朝時代(1368年~1644年)まで行われました。
7世紀中期、朝鮮半島経由で日本にやって来た中国人の子孫である善那が、天皇に牛乳を献じ、「和薬使主」という称号を授けられたのが、日本での乳の利用に関する最初の記録です。
700年には、宮廷が命令して、牛乳を煮詰めた乳製品である「蘇」を作らせたとあり、これが乳製品の最初の記録です。
8世紀には政府の典薬寮の中に、乳を生産する為の牛を飼育する農家を所属させ、牛乳や蘇を宮廷に納入させましたが、乳搾り目的といて飼育された牛の頭数は少なく、「延喜式」の記録に基づき計算した結果では、10世紀初期に蘇を生産する用途の為に日本全国で飼育されていた牛の頭数は1500頭と少ないものでした。
蘇とは、「延喜式」には、乳を10分の1に煮詰めると蘇ができると記録されており、また、蘇を籠に入れて輸送している事から固形状であったと分かります。
しかし、牛乳の無水固形成分は12%以上なので、ただ煮て水分を蒸発させただけでは最終製品は原料乳の10分の1以上になってしまいます。
蘇がどのような乳製品であったかについては、様々な議論がありますが、最も妥当と思われるものは、牛乳を静かに加熱し、表面に浮かぶ膜状のものを繰り返し掬い出し、そうして得られた乳皮が蘇であるという説です。
これは現在のモンゴルで「ウルム」と呼ばれる乳製品と同じで、「斉民要術」には、乳皮に熱湯を加えて撹拌して得られるバター状の製品を蘇とする記述がありますが、日本の蘇は撹拌工程を経ていない食品と考えられます。
牛乳を飲んだり、蘇を食べたりしたのは、宮廷貴族等、極限られた人々で、12世紀以降、貴族社会の没落と共にそれらは忘れ去られた食品となり、数百年後の江戸時代になって、西欧の科学や医学をオランダ語文献で研究した学者達が、牛乳や乳製品の栄養的価値が高い事を再認識するようになり、1727年、将軍吉宗はオランダ人との通商により、乳牛を3頭輸入して、それらの牛を直轄牧場で増殖させました。
その牧場で得られた牛乳に砂糖を加え、掻き混ぜながら弱火で煮詰め固形状にした乳製品を「白牛酪」をと言い、その生産量は極僅かで、将軍や重臣達が滋養強壮の薬効を期待して食べました。
一般の日本人が乳や乳製品を日常の食べ物とみなすようになるのは20世紀になってからでした。
精進料理の成り立ち
精進料理とは、仏教の戒に基づき殺生や煩悩への刺激を避ける事を主眼として調理された料理です。
日本で、仏教の影響下に寺院の食事としての精進料理が成立したのは事実ですが、それが社会的な広がりをもった時、タブーとしての精進よりもう少し緩やかな意味合いをもっていくように考えられます。
平安時代中期に執筆された「枕草子」に、子供を法師にするのはかわいそうだ、として、その理由を精進物の粗きを食うという事に結びつける話があり、言い換えれば精進物とは粗末な料理という意味があったと見て取れます。
江戸時代中期に編纂された、日本で最初の近代的な国語辞書とされる「倭訓栞」に、
「野菜海草の類を精進料理といふには古き語也。(中略)精進の語は、もと美食せざるをいへり。今魚肉を食ざる事とするは、仏氏の意也。」
とあり、精進とは美食せざる素食の意味であるとすれば、精進に対する言葉は美物であって、この美物の料理が魚鳥を主な素材とする贅沢なものでした。
精進が生物を避けるというより、むしろ粗末な料理という意味合いを含んでいた段階から、進んで野菜料理の意味合いになったのは、平安時代末期の事で、11世紀中期に成立された藤原明衝の作品「新猿楽記」に登場する食道楽の女は、好物の名前を挙げる中で、
「精進ノ物ニハ腐水葱、香疾大根、舂塩辛、納豆、油濃茹物、面穢松茸(読み下し)」
と、精進物を列挙しており、これは、明らかに同文の前半に登場する鯉の丸焼き等の魚鳥の料理に対照させながら、当時の野菜料理を指しています。
ただし、その内容は、むしろ戯画化された仮想の食とか悪食に近いもので、これを精進の実態と見る事はできませんが、それでも野菜料理に手の込んだ工夫が施されるようになった事は間違いないと考えられます。
精進料理から日本料理への影響
宗教的なタブーに規制された食事として出発した仏教の精進料理は、美物と称する魚鳥料理から見れば粗末な料理でしたが、日本人の独特の料理感覚は精進の主たる材料である野菜料理の妙を創造し、その時、精進は寺院生活から一般人の生活の場への広がり、宗教的なタブー性を失って、見事な野菜料理の別称として日常生活に定着しました。
平安時代の貴族の宴会料理である大饗は、冷たい料理が多かったのに対して、中世になると温かい料理が増え、鎌倉時代以降の記録には魚や野菜を味噌で煮た料理の献立が多くなります。
鉄製の鍋、釜が普及した事がその要因のひとつに挙げられますが、もう一方で、寺院で発達した精進料理が煮物料理の一般化に影響を与えたとも考えられます。
肉や魚は焼いて食べる事ができますが、植物油や脂肪で揚げたり、炒めたりする料理技術が普及しなかった日本では、野菜や海藻は煮る他になく、それを味噌で煮る料理法は恐らく寺院を中心に発達したものと考えられます。
味噌の原型は、調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、また、徒然草にある北条時頼と北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話があり、当時の味噌は副食物として摘まんで食べられていた事が分かります。
これを調味料として利用する為には、水に溶けやすいようにペースト状に加工する必要があり、その為に使用する擂り鉢は、平安時代末期には庶民生活の中に入ってきていた様子が、絵巻「病草紙」の中に見られ、足で擂り鉢を押さえながら何かを擂っている女が描かれています。
味噌だけでなく、胡麻や胡桃をペースト状にした和え物料理も寺院を中心に発達したものと考えられます。
中国に起源をもつ豆腐の日本における最初の記録は、1183年(寿永2年)の奈良、春日若宮神社の文書に「唐符」と記されている事です。
湯葉は、鎌倉時代に禅僧により中国から製法が伝えられた食品と考えられています。
小麦粉の植物性タンパク質であるグルテンを抽出した麩も、鎌倉時代に中国から伝えられ、寺院から民衆に普及しました。
動物性食品を禁じられていた寺院の生活では、タンパク質の摂取源として、豆腐、湯葉、麩が重要な食品であり、これらの製造法や料理法は、寺院を中心に発達し、ついで寺院の門前町にこれらを製造する専門の加工業者が出現し、民衆に普及しました。
この他、中世の寺院が広めた料理に点心と茶の子があります。
禅僧の生活では、朝夕二度の食事の他に、昼に軽食を食べる習慣があり、麺類、羊羹、餡を入れた饅頭等、中国の寺院から伝えられた様々な軽食や、昔からある餅等を寺院では点心として禅僧に供し、これを点心と呼びました。
禅宗は中国の飲茶の風習を日本に普及させましたが、茶を飲む時に摘まむ果物や菓子が茶の子です。
この点心と茶の子は、日本の菓子作り技術や、懐石料理に受け継がれます。
かつての粗食の意味合いがあった精進料理は、一変して限られた材料で贅を凝らした料理が試みられるようになり、藤原兼頼の日記「平戸記」の中に、聞信という僧がことごとく精進物で作った味も姿も魚にそっくりなものを土産にして人々を驚かせた話があります。
後世の雁擬きに象徴されるような、何々もどきと言われる魚鳥に類似した味わいが巧妙に創造されていきました。
中世において、中国文明を日本に伝える役割を果たしたのは、鎌倉時代に勃興した禅宗の僧侶であり、彼らは中国の禅寺に留学し、帰国後に宗教思想ばかりでなく、中国の文化、芸術、新しい知識を持ち帰り、食品や料理法にも禅僧がもたらしたものが多く、武士に禅宗の信者が多かったので、禅寺の料理や食事作法が武士階級に取り入れられ、後に武士の公式の食事に影響を与える事になります。
精進料理の発展
鎌倉時代以降の禅宗の流入は、精進料理の発達に寄与しました。
鎌倉仏教の禅宗のひとつである臨済宗や曹洞宗の成立と共に、宋代中国の優れた食文化が禅僧を通じて紹介されました。
室町時代に多く書かれた往来物と言われる手紙形式の教科書を見ると、精進料理がいかに多彩な展開を示したかよく分かり、今日では内容があまり判然としない料理もありますが、その料理は種類は大変多くて、例えば汁を取ってみても「庭訓往来」には、
「御時(斎)之汁者、豆腐羹、辛辣羹、雪林菜、幷 薯蕷匐、箏羅匐、山葵寒汁等也。」
と、仏寺の正餐である斎に供される汁を挙げています。
(羹は「あつもの」で、ここでは熱い汁の意味。)
当時、禅宗を通じて渡来した中国風料理のひとつである豆腐が和風化されて人気があった様子が、まず第一に豆腐汁を挙げているところから伺えます。
雪林菜もおから汁と考えられ、薯蕷匐は自然薯の汁、箏羅匐は筍と大根の汁です。
室町時代後期に一条兼良によって編纂されたと言われている往来物「尺素往来」に載っている精進料理はさらに多く、この中には名称も内容もよく分からないものもあり、精進と思えないものもありますが、雁擬きのように精進もので魚肉の味や姿を思わせる料理法が珍重されたのだと考えられます。
「蔭涼軒日録」等の禅僧の日記に料理の記録は多くあり、禅宗の儀礼の中で精進料理の体裁が整えられてきたと言えます。
禅寺の斎として、1581年(天正9年)に大徳寺真珠庵で行われた一休宗純百年忌の記録があります。
これは禅寺の精進として正式のもので、2部に分かれており、前半は湯、後半は斎で、湯はいわゆるおしのぎの薬湯で、斎が正餐です。
斎の内容は、菜が七種で汁が二種です。(菜を数える時は飯と香の物と汁は加えないのが原則)
膳に付いている汁とは別に冷汁が出され、冷たい汁は内容が記されていないので判然としませんが、一方の汁は野菜を細々入れた集汁(集めは熱めで熱い汁の事)です。
菓子も七種で、山芋、胡桃、熟柿、昆布、大栗、麩、ひねり花とあります。
この献立は今から約400年前のものですが、様式としては現在もほぼ維持され、現代の大徳寺開山忌の膳を見ると、この一休百年忌の場合に比べて冷汁と手塩がないだけで、基本的にはその様式をそのまま残しています。
この様式は、懐石料理がほぼ完成されたと思われる18世紀中期の茶会にも受け継がれ、料理の内容、配置といった様式はとてもよく似ています。
鎌倉仏教のひとつ曹洞宗の開祖である道元禅師は、食べ物を用意する典座の在り方を示す「典座教訓」をあらわし、食事作法を示す為に「赴粥飯法」を撰述しました。
その中で道元は、禅林においては食事を用意する役である典座は重要な役であり、食材を集め料理する事、それ自体が坐禅と変わらない「行」であると明確に述べています。
これは、道元禅師が宋に仏教を学びに渡った時、阿育王山の老典座との出会いから、料理を含めて日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であるという弁道修行の本質を知った事から、典座の仕事の重要性を感じ、「永平清規」と言われる一連の清規な中で、最初に記述しているのが「典座教訓」である事や、典座が重役の一員に数えられている事からも見受けられます。
「赴粥飯法」も厳格な食事作法の規定で、現在も禅林の中で守られてきていますが、それが少しづつ外部の一般社会にも影響を与え、その主張するところは「典座教訓」と同じで、巻頭の一節に「法は是れ食、食は是れ法なり」とあるように、食べる事も「行」であると主張しています。
日本の食文化の中に、どこか精神論がいつも潜んでいるのは、こうした禅の清規の影響とも言えます。
まとめ
今回も、そもそも、日本料理・和食とは何なのか、日本料理・和食の起源とはどういうものなのかという疑問のもとから、日本料理・和食の歴史を学んでみようという想いに至り、この記事を書き始めました。
古代から中世の人々の食事を学んでみると、その当時の規範すべき大国である中国の文明の積極的受け入れから、日本らしさの形成を経て、徐々に現在の日本料理、日本人の食事に見受けられるものが見えてるという時代でした。
日本人が何故肉をあまり食べず、魚を食べられてきたのかというのが、その魚が良く獲れるという地理的要因だけでなく、仏教や神道の宗教的要因と、食肉用、乳用家畜を生産する牧畜が浸透されなかった事が挙げられ、それらが時代を経るにつれて、日本人の思想形態にまで浸透していき、多くの日本人が肉食を忌避するようになったという事も学びました。
現在にみられる日本料理の様式や、日本人の食事の様式が、何故現在にも残っているのかという理由や、それが選択されてきたかという事は、一言で表すのは難しく、全ての事には、やはり歴史があり、時代の積み重ねで取捨選択されて徐々に現在にみられる様式に形成されてきている訳で、このような事を説明するのはとても難しい事なのだなと思いました。
日本料理・和食の歴史という観点で言うと、この飛鳥時代から平安時代、鎌倉時代から室町時代の古代から中世では、日本料理の原型というものが少しづつ見えてきました。
まだまだ長くなりそうなので、一度ここで区切り、何回かの記事に分けて、この日本料理・和食の歴史に迫りたいと思います。
先はまだ長いっ!
第35回 かわののブログ
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