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「ヴィーガン」について考えました。


この「自分の考え」というカテゴリー記事は、
自分が日頃考えている事、悩んでいる事、閃いた事等を、文章にする事で発散し、整理し、自分の考えとしてまとめようという記事となっています。


近頃、よく聞くようになった「ヴィーガン」という言葉。
動物が可愛そうだから肉は食べずに野菜を食べる人、という印象です。

飲食店でも、ヴィーガン対応のメニューやコース料理を提供しているお店もありますし、ヴィーガンミートやベジミートと呼ばれる、大豆等の植物性原料を使った代替肉も普及しています。

このように、一時期の流行としてではなく、ひとつの思想として世間に受け入れられつつあり、もはや無視できないものとなっているように思います。
特に料理人としては、食事という関り深い分野の思想ですので、より向き合わなければならないなと思います。

私は、ヴィーガンの方達の環境の事を考えた思想による行動というものは、単純に素敵だなと思います。

ただ、一部の過激なヴィーガンの人が、自分の子供に野菜と果物しか与えず、栄養失調で衰弱死させたという話も聞いた事があり、少しカルト宗教染みた印象を受けてしまうのも事実です。
SNS等、特にTwitterでヴィーガンを検索してみると、ヴィーガンの方と、畜産業や農業の方と罵り合いをしているのをよく見かけます。
その罵り合いは、正直気分のよいものではありません。

こうしたマイナスなイメージが生まれてしまう原因は、ヴィーガンの方達の本来の思想の理解が不十分だから起こってしまうのではないかと思いました。
SNS等の罵り合いは、ヴィーガンでない方も、過激なヴィーガンの方も、ヴィーガンの本来の思想の理解が不十分な事によるゆえの攻撃性なのではないかと思いました。
本来のヴィーガンの相手の事を思った優しい思想にもとづけば、罵り合いなんか生まれないはずです。

そして、私自身も正直「ヴィーガン」に対して、意識高い系というか、少し斜めから見ている部分はあります。
ですので、一度ここで「ヴィーガン」についてちゃんと学んで理解し、本当に素晴らしい思想なのか、今後私自身も取り入れていくべきなのかというものを考えていきたいと思います。


まず、「ヴィーガン」とはそもそも何なのでしょうか。

Wikipediaで調べてみると、

ヴィーガニズム(veganism)は、人間ができる限り動物を搾取することなく生きるべきであるという主義。
英国ビーガン協会の定義によれば、「Veganisimとは、可能な限り食べ物・衣服・その他の目的のために、あらゆる形態の動物への残虐行為、動物の搾取を取り入れないようにする生き方」である。

とあります。

また、ヴィーガンという語源は、

ヴィーガン (vegan) という単語は、1944年のイギリスにおいてヴィーガン協会の共同設立者であるドナルド・ワトソンによって造語された。

「私は、初期の読者たちから『乳製品を食べないベジタリアン』を置き換えるような、より簡潔な言葉のアイデアを募った。dairyban、vitan、benevore、sanivore、beaumangeurといった突飛な案も出たが、結局私が採用したのは私自身の案である vegan だった。それはベジタリアン (vegetarian) の最初の3文字と最後の2文字—つまり『ベジタリアンの初めと終わり』—で構成されている。この言葉は『オックスフォード英語辞典』に採録されたが、それよりもっと良い言葉を作ろうとはした人はいなかった。」

と、あります。

さらに、ヴィーガンについて、YouTubeでオリエンタルラジオの中田敦彦さんがやられている「中田敦彦のYouTube大学」で、とても分かりやすくまとめられていました。


こうしてヴィーガンというものを調べてみると、単に完全菜食主義という生き方を選択した者というよりは、環境問題や動物愛護等の社会問題を考えて完全菜食主義という生き方を選択した者という、思想からくる選択者という事が分かります。

ヴィーガンがヴィーガンになった理由は人それぞれで、それは大きく3つに分けられるそうです。

ダイエタリー・ヴィーガン:健康志向によるヴィーガン

エンバイロメンタル・ヴィーガン:環境保全によるヴィーガン

エシカル・ヴィーガン:動物愛護によるヴィーガン


ヴィーガンの方が、なぜヴィーガンになったのかという動機について、多くの方が挙げている映画があります。
それは「Earthlings(アースリングス)」です。
この映画は、2005年のアメリカのドキュメンタリー映画で、ペット、食べ物、衣服、娯楽、動物実験の5つのパートに分かれた動物たちの置かれている状況を示す実際の映像とともに、ホアキン・フェニックスのナレーションによって動物の権利を訴えています。
実際に見るとかなり残酷な映像が流れます。
確かに動物が可哀想だと感じます。

動物が可哀想だから、野菜だけを食べるヴィーガンになる。

自分は、ここに少し疑問を感じてしまいました。

動物はだめだけど野菜はいい理由として、野菜は感覚がない、痛覚がない事が挙げられます。
しかし、野菜も生きていると自分は思います。

だからといって、動物が残虐な扱いを受ける事がいいとは私も思いません。
しかし、だから痛覚のない野菜は食べてもいいというのは少し雑な思考のように思います。

人間は生きていく為には食べなくてはなりません。
食べるという事は、何かの命を犠牲にするという事です。
食べるのが野菜であったとしても、野菜の命を犠牲にしているのだと思います。
命は平等という事ならば、動物も野菜も平等だと思います。
だから「いただきます。」と言うのだと思います。
人間は何かの犠牲の上でしか生きていけないのです。
ですので、少しでもその犠牲に敬意を払って生きていくしかないのだと思います。

では、その上で、どのような選択をすればいいのでしょうか。

問題なのは、動物が残虐な扱いを受けている事だと思います。

動物が残虐な扱いを受けている場面のひとつに、大量生産が必要な為による工場的な畜産業があります。
このような工場的な畜産業では大量生産の為に広大な土地が必要となり、その結果、森林を開拓する等の環境問題へも繋がります。
これは、野菜にも当てはまると思います。
大量生産が必要な為による工場的な農業では、農薬を大量に使ったり、広大な農地を求める為に、森林を開拓したりします。
これは、同じく野菜が残虐な扱いを受けているといえるのではないのでしょうか。
という事は、野菜だけを食べるという事だけでは、環境保全、生物愛護という観点からみるとだめなように思います。

私は全ての畜産業を否定するつもりはありません。
広大な牧場でのびのびと、美味しいご飯を与えて、愛情を込めて育てている畜産家の方もいます。
その愛情は決して否定できるものではないように思います。
これは農業にも当てはまると思います。
無農薬又は必要最低限の農薬で育て、手間暇をかけ、愛情を込めて育てている農家の方もいます。
これらの畜産家と農家の方は、動物や野菜に対して残虐な扱いをしていると言えるのでしょうか。
私は決して残虐な扱いをしているとはいえません。
ましてや、その動物や野菜に対する愛情は、尊敬に値するものだと思います。
確かに、最後には食べる為に殺してしまう事になるのですが、その犠牲は背負うべき人間の罪だと思います。

魚介類にしても同じ事が言えると思います。
近年、魚が獲れなくなっている原因のひとつに、大量捕獲を目的とした、海の魚を根こそぎ獲ってしまうような漁法で、稚魚もお構いなしに獲ってしまうという事があるようです。
これは、魚に対して残虐な扱いをしていると思います。
それに対して、魚に愛情を込めているといえる漁法は、稚魚は獲らず選別して魚を獲り、美味しく食べる為に魚に対しての手当を丁寧にする漁法だと思います。
このような漁法の漁師の方達は、魚に対して敬意を払って漁をしているといえると思います。

鹿、熊、猪等の野生動物に対しての猟はどうでしょうか。
野生動物の猟師のドキュメンタリーを見た事があります。
罠を使った猟で、確かに罠にかかった鹿の映像は、残酷だと感じてしまうかもしれません。
しかし、その猟師は決してその鹿に対して残虐な扱いをしているとは言えず、鹿に対して敬意を払い、美味しく食べようと素早く解体していきます。
映像的には残酷と思えるはずなのですが、やはりその猟師の方の鹿に対する敬意が見て取れるので、とても動物虐待をしているとは思えません。

私が考えるに、人間が食料として動物や魚介類や野菜を獲る時に、それらに対して可哀想か可哀想でないかと感じる違いは、その動物に対して獲る側が、愛情を込めているのかいないのか、敬意を払っているのかいないのかの違いだと思います。

そして、愛情を込めて育てる飼育法、敬意を払って仕留める猟法は、結果として環境に優しいです。

さらに、愛情を込めて育てた動物や植物、敬意を払って仕留めた動物や植物は、結果としてとても美味しいです。

ヴィーガンの思想はとても素敵だなと思います。
私が理解するに、要は、「環境に優しい生き方を選ぼう。動物に優しい生き方を選ぼう。」という思想なのだと思います。
加えて「自分に優しい生き方を選ぼう。」とすれば、健康志向によるヴィーガンになります。
その実際の行動には、人それぞれ立場や考え方があるはずなので、一様にはできないと思います。
私としては、行動は違えど、思想が同じならば、それは同じヴィーガンという事でいいのではないかと思います。
その行動が毎日でなくても、1日でも、1食でも、ヴィーガンの思想で行動すれば、環境や動物等の社会問題に少しでも貢献できるはずです。
そんな時々ヴィーガンという選択もあるようです。

近年、「サスティナブル」という言葉をよく聞くようになりました。

サスティナブルとは、「持続可能な」という意味。主に自然にある資源を長い期間維持し、環境に負荷をかけないようにしながら利用していくことを指す。サスティナブルは英語ではsustainableと表現し、「持続できる」「支持できる」「耐えられる」といった意味を持つ。

サスティナブルの語が社会に知られるようになったのは、2015年9月の国連サミットにおける「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された「持続可能な開発目標(SDGs)」である。SDGsは、持続可能で多様性と包摂性のある社会を実現するための国際目標のこと。

ヴィーガンの思想で行動するという事は、結果的にサスティナブルな社会に貢献しているはずです。
そして、愛情を込めて育てる飼育法、敬意を払って仕留める猟法は、結果としてサスティナブルなものだと思います。


ここまで、ヴィーガンについて考えた事、思った事を、とりあえず吐き出して書きなぐってみました。
まだこれから色んな情報を知るうちに考え方が変わるかもしれませんが、一度ここでまとめてみたいと思います。

私なりにヴィーガンとは、
「環境に優しい生き方、動物に優しい生き方、自分に優しい生き方、を選ぶ人。
その実際の行動は人それぞれで、この思想による行動を行う人。」

そして私が選択する行動は、
「愛情を込めて育てた動物や植物、敬意を払って仕留めた動物や植物だけを食べる。」

このような行動を少しづつ取り入れて生きていきたいと思います。
そしていずれ開く自分のお店も、このような理念を持ってやっていきたいと思います。

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